2015年3月15日日曜日

ウェーブで立ちションしてごめんなさい

はじめに
 情報量が多く、フローな情報ばかり飛び交うこのご時世、キャッチーなことを言うのが良い事と思える。でも、タイトルで散々煽って中身を読んでみたら大したこと書いてない、なんて記事はネットにあふれているし、そんなことでいちいち「だまされた」と思っている時間は本当にもったいない事だと思う。
 一方で、人間から世代を越えて愛され、社会にストックされている文学作品というのは、キラキラした文章よりも、憎悪や妬みなど人間の醜悪な部分を赤裸々にした暗く気が滅入るような文章が多い。太宰治の『人間失格』なんて「恥の多い人生を送ってきました」で始まるし、最近読んだ三島由紀夫の『金閣寺』なんて、童貞で吃音の修行僧が金閣寺のその美しさに見惚れて金閣寺を焼失させるとんでもない話である。
 でも、こういう文学作品を読んだ後は、なんだか不思議だ。今までやり場のなかった自分の中に抱える負の感情を棚卸ししたような気分。自分が抱える憎悪や妬みといったネガティブな感情と冷静に向き合うことができ、結果ポジティブになれたりする。よく考えれば人間のモチベーションの根源にあるのはネガティブな感情なのかもしれない。「悔しい」「あんな思いは二度としたくない」「あいつには絶対負けない」そういうネガティブな感情がより継続的に人間を突き動かすのではないか。「社会をよくしたい」とか一見キラキラした表面的なモチベーションで始めたことは長続きしないのだと思う。
 ということで最初に断っておくが、この文章はキラキラしていない。キャッチーでもない。APU生の明日のモチベーションをあげるために書いている「すごい」ものでも何でもない。むしろ暗い文章かもしれない。ただ正直に書くことは約束する。僕の行動の源泉にあるネガティブな感情も正直に書く。これだけSNSが広がり、「友達」との相互監視のもと見栄を張り、背伸びする事を強いられる時代に、正直であるという事はとても難しい事だと感じている。でも「僕の正直」を読んでくれた人の中から、1人でも「正直になろう」と共感してくれる人が出てきてくれればとても嬉しい。100人に1瞬のモチベーションを与えるフローな文章ではなくて、99人につまらないと思われても1人の人間に引っかき傷を与えるようなストックされる文章にする事を意識してこの卒業文集(ストーリー)を書きます。話は幼少期まで遡ります。(ウェーブで立ちションした話はしません)

1. 幼少から高校中退まで
 東京都多摩地区のベッドタウンで生まれた僕には二人の姉がいて、物心ついた時には両親と長姉の喧嘩が絶えない環境で育った。僕自身は末っ子ということもあり、両親からも姉からも可愛がられたものだけど、家の中で争い事が始まったらどうしようと幼少の頃はいつもビクビクしていた。同時に、いつも両親に反抗する長姉の姿を見て「自分はいい子でなくてはいけない」と自分に言い聞かせていた。いま思えば「こうでなくてはいけない」という考えが強い両親だったので、姉が反抗して開拓してくれたおかげで僕はかなり自由な生き方を許容してもらえた。なので、長姉には感謝の気持ちしかない。
 だが当時の僕にとっては両親に反抗する姉は反面教師でしかなく、自然と「自分はいい子でなくてはいけない」という強迫観念にも似た思いの中で僕は育つ事になる。サッカーチームではキャプテンだったし、成績も学年で5本の指には入っていたと思う。小学校4年生の時には中高生と互角にそろばんをしていた。書き初めは毎年金賞だったし、中学の頃は生徒会長もした。それで両親が笑顔になってくれれば、僕はそれだけで幸せだった。僕が結果を出せば出すほどに、両親は僕に期待してくれたし、期待されれば張り切って色んな事を頑張る子供だった。反抗期もなかった。
 そんな風に成長して僕は進学校として有名になり始めていた都立高校に進学した。入学して最初のガイダンスで国公立受験の話を先生が始めるような高校だった。今の僕からしたらありえない話だが、自営業をしている大人がほとんどいない地区に一般サラリーマン家庭に生まれ育った僕からしたら、都立高校から国公立の大学に進学して父のように務め人になる事は疑うまでもない自然なキャリア選択だった。
 ただ入学してすぐの高校1年生の時、僕は鬱病を発症した。原因はいろいろあるが、一つには疲れてしまったのだと思う。自分が心底やりたい事だからじゃなくて、誰かに誉められ、社会的に良しとされる事をただ全うする事に嫌気がさしたのだと思う。それに疲れてしまう自分は弱い人間だと自責する期間は長かったが、いま思えば自分の違和感とちゃんと向き合う強さを持っていたんだと当時の自分に言ってあげたい。
 とにかく、僕は半年学校を休んだ。その間一歩も家から出なかった。
 同級生が2年生になる頃、僕は留年して高校に復学した。一緒に入学した同級生からジロジロ見られる中で入学オリエンテーションにも出た。ただ、そういう屈辱感の中でもがきながらも、僕は必死に新しい同級生とも友達になった。年齢や年次で人を判断しなくなったのはこの時の原体験によるが、何はともあれ一緒にいて楽しいと思える友達がいるというのは学校に行く理由ができてただただ嬉しかった。
 しかし、僕の病気は完治には程遠く、学校には週2-3日しか行けなかった。学校に行けたとしても朝トイレで吐くことしかできない生活がしばらく続いた。1年生を終えた年度末に渡された成績の評定平均は0.3だった。誰よりも予習復習をしているのに体が言う事を聞かずに出席できないというだけで与えられるその数字が、僕に対する正当な評価とはとても思えなかった。もはや自分の居場所じゃない。結局高等学校卒業程度認定試験を受け、高校は辞めた。退学証明書はクシャクシャにして近くの公園のゴミ箱に破り捨てた。

2. 高校中退からAPU入学
 高校を中退しても、高卒認定試験に合格していたので大学受験をすることはできた。なので塾に通い大学受験を始めたのだが、結局思うような結果は得られなかった。というより、小康状態にあった病気の症状が悪化して試験を受けにいくこともできなかった。高校を中退した時は大学受験をするという目標があったわけだけど、それも失敗した僕には改めて何か目標設定する気力もなかった。かと言って本当に何もしないわけにもいかないと思いアルバイトを始めた。
 アルバイト探しの時も履歴書に高校中退と書いたらことごとく落ちたので、高卒と偽ってコーヒーショップのアルバイトを無理やり見つけた。自分を偽って生きざるを得ない社会に悲壮感を感じ、バイトが休みの日は図書館に行って太宰治全集を読むような生活を3ヶ月ぐらいした。
 ただ、そんな僕の転機となったのが、元サッカー選手の中田英寿。ドイツワールドカップ後に引退した中田英寿が旅に出ていた事が話題になり、僕も「旅に出よう」と思った。ちょうどその頃はアルバイトもかけ持ちするようになり、お金も貯まっていたので、東南アジアのタイ・カンボジア・ベトナムをバックパックする事にした。
 その旅で見たストリートチルドレンやカンボジアのキリングフィールドが僕の考え方を変えた。単純に貧困や争いが起きる原因を知りたくなった。そこで初めて、内発的に大学に行きたいと思ったのだ。それまで「みんなが行くから行くもの」と漠然と思うが故に勉強する気にもならなかった大学受験勉強。でも、その旅をきっかけに初めて「もっと勉強したい」という思いから大学を目指したくなった。そうして約1年強のフリーター生活を終え、また大学受験生となったのである。

3. 大学受験—APU入学
 「今度東京からAPU見学に行くんですけど、学長に会わせてください」
 大学受験生の夏、僕はアドミッション・オフィスに電話して、こんな事を言っていた。高校を中退した僕には、幸運にも以前在学した高校の先生のように偏差値を基準に進路指導をしてくれる優しい大人が周りにいなかった。だから、大学選びというものは大学のトップである学長に会って話せば自分がそこに行きたいかどうか何となくわかるだろうという思いで電話をした。
 結局学長には会えなかったけど、その時お会いしてくださったのがAPM学部長の横山先生。「学長に会いたい」などと勝手にアポを入れてくる生意気なガキを優しく迎え入れ、ちゃんと学長室の応接室まで案内してくれた。いま振り返れば、高校を中退して何にも所属を持ち合わせていない時間が長かった僕は、単純に居場所を求めていたのだと思う。偏差値が高いとか、有名だとか、そういう事じゃなくて、「僕はここにいていいんだ」という納得感を持てる帰属意識に飢えていた。横山先生と当時アドミッションズ・オフィスにいた伊藤さんに「君みたいなスマートな悪ガキはAPUっぽいよ」と言われて、「あっ、ここが僕の居場所だ」と思いAPUへの入学を決めた。


4. APU入学—交換留学
【ハンス2回生 梶尾1回生の時】
 APUに入学してAPハウスライフも満喫したわけだが、そのあたりの体験談は他の卒業生とあまり変わらないだろうから省く事にする。僕が自信をもって語れる事があるとしたら2回生の秋から行った交換留学だ。交換留学に僕が行きたいと思いその目標にコミットできた理由には3つの段階がある。
 まず、父が単身赴任で中国に行ったり姉がアメリカに留学に行っていたり、身近に海外で働いたり勉強をする人がいたので、僕自身も何となく留学に対する憧れはあった。ただ前述のように、僕は高校にまともに行っていなかったので、せめて大学では留学したいなぁ、交換留学とかいいなぁ、ぐらいには思っていた。
 この漠然とした憧れが夢へと具体的なものになったのが、東日本大震災だった。僕は20114月入学だったので、あの震災は入学直前の出来事だった。あの時、世界中から沢山の支援が日本に寄せられたわけだが、日本に寄付をしてくれた人は当時の僕のように日本に安住している人を見て寄付をしてくれただろうか。いや、日本を飛び出して自分の国に来た日本人を見て、お前の母国のためならと思い支援してくれたのではないか。そう考えると、ジャパン・ブランドを作っているのは日本にいる日本人じゃなくて、海外にいる日本人だ。僕も日本のファンを一人でも多く日本の外で作れるようになりたい。そのためには、交換留学に行こう、と夢を膨らませた。
 最後に、夢だった交換留学がさらに具体的な目標となったのが、APUの先輩による影響だ。交換留学を経験した先輩たちの話の中で「APUは腐っても日本だよ」という言葉が印象的だった。日本にいながら留学しているような環境にいれると謳うAPUだが、日本人である限りマイノリティの中のマジョリティでしかない。グローバルに通用するコミュニケーション・スキルやマインドセットを養うには、圧倒的なマイノリティとなってそこで自分に何ができるかを問いかける経験が必要だと先輩の話を聞いていて思った。
 憧れから夢へ、夢から目標へ。カッコイイ先輩に出逢えたおかげで、そんな先輩の背中を追いかけるようにTOEFLの勉強にも身が入った。TOEFLテスト直前にはAPハウスの自習室があるフロアのトイレで毎夜TOEFL参考書の英語音読をした。結果、入学当初から半年で80点スコアを伸ばして香港への交換留学の切符を手に入れた。

5.交換留学
 交換留学については当時の僕のブログを読んで頂ければと思うのだが、とにかく僕が香港に留学した時は幸か不幸か日中関係が非常に悪化した時だったので、エキサイティングな事がたくさんあった。親日家が多い香港では日本人であるという事で恩恵を受ける事も沢山あったが、中国本土出身の学生に“I hate Japanese”と面と向かって言われる事もあった。当時の野田首相が尖閣諸島の国有化宣言をした時は各紙で抗日の文字が踊り、肩身の狭い思いもした。
【香港で参加したチャリティイベント】
 ただ、そういう時に嬉しかったのが、日本人であるという事ではなくて、一人の人間として付き合ってくれた友人の存在だ。さすがインターナショナル都市香港なだけあって、日中戦争に関して思うことはあっても、戦時中の日本人や現在の排外主義的な日本人と僕の事は切り離して個人として接してくれる友人がたくさんできた。国民としてわかり合えない事があるとお互い認めた上で、それでも個人としてわかり合える事を大切にできる仲間に出逢えた事は、本当にありがたかった。
 ひるがえって自分は日本にいた時、国籍で人を判断したりしていなかったか猛烈に反省した。APUという環境でさえ、少なからず国籍や宗教のレッテルを貼って国際学生を評価していた自分がとても恥ずかしかった。その他いろんな学びに関しては、2012-2013の僕のブログ記事を読んで頂ければと思う。

6. 就活
 交換留学を終えて僕は緩やかに就活モードに入った。就活についても「就活総括」という僕のブログ記事を読んで頂ければと思うが、ブログに書かなかった僕の就活観を簡単に書いておこうと思う。僕が就活の際に大切にしていた事、いわゆる軸のようなものだ。


<就活生(3回生)の夏は日本でのインターンとか全く興味なく、バングラデシュのグラミン銀行へ>
①グローカル
 留学先の香港でもロールモデルとなる日本人ビジネスマンにたくさんお会いした。他の多くのAPU生がそうであるように、僕も世界を股にかけるビッグな仕事をしたいと思っていた。だけど、就活をしていてOB訪問を重ねる中で、たとえばタイに駐在していたけど、週末はいつも日本人とゴルフ、という働き方をしている商社マンのお話を聞くと、それは僕がイメージするグローバルな働き方じゃないなと思った。海外売上50%とか言っても、クライアントがほとんど海外に進出している日本人だけなんて仕事は魅力的ではない。ちゃんとローカルに根ざしたビジネスをしているグローカルな会社で働きたいと思うに至った。
②成長
 市場が成長しているか?会社が成長しているか?そこで働いている人が成長しているか?お互いの成長を喜び合える企業風土があるか?「成長」というキーワードで会社を見ていた。どんなに自分が好きな事でも、周りの社員に成長意欲が欠けていたらオモシロクない。自分が興味ある授業でも、グループメンバーのモチベーションが著しく低かったらその授業科目そのものが嫌いになったりするタイプなので、なんとなく成長意欲がある人と働きたいと思っていた。同時に、どんなに成長し合える人と働いても儲からなかったら嫌だな、という思いもあった。どこ行っても自分が成長し、会社を成長させるという気概は必要かもしれないけど、新卒として自分が一番成長できる環境は、ちゃんと儲かっていて、人も成長しているところかなと思う。

③当事者意識
 OB訪問でケニアに駐在して日本の二輪車のマーケティング調査をしていたある商社マンとお話していた時、「中国企業のプレゼンスが高まっている中で日本企業はどうやってアフリカ市場に食い込んでいけると思いますか?」と聞いたら「それは上が考えることかな」と回答された。これは極端な例だけど、特に規模が大きい会社の社員は自分の目の前にある業務に対してまるで他人事のような発言をする事がたまにあった。規模が大きければ自分事として捉えられる範囲も相対的に低くなるのはわかるが、少なくとも僕はその働き方をしてハッピーではない。自分の目の前の業務によって誰がハッピーになるのか、ちゃんと自分の手の届く範囲で結果がダイレクトにわかる仕事じゃないと僕は当事者意識を持ってモチベーションを維持できないだろうと思った。ので、その会社で自分は当事者意識を持てるのか、という事は重要なポイントだった。
これに全て当てはまるのが株式会社マザーハウスという会社だった。マザーハウスの山口社長の本『裸でも生きる』はAPU入学前から読んでいて尊敬する経営者の一人だったので、入社を即決した。

7. APUの学びのエッセンス
 以上僕の幼少期と、APUでの経験を交換留学と就活とをピックアップして振り返ったわけだが、最後に僕自身の原体験とAPUでの経験で一貫して得た学び二つをまとめとして記しておきたい。
 一つはレッテルを張らないということ。日本社会で「病歴」や「高校中退」というレッテルは想像以上にマイナスとして捉えられる。バイトを探す時も、就活の時も、明らかにマイナスのレッテルを貼られてはじかれた事は1度や2度ではない。ただ前述のように、僕自身も日本に留学に来ている人に対して「国際学生」というレッテルを無意識に貼ってしまっていた。もちろん便宜上の区別は必要だが、どこかで彼らを疎外していなかっただろうかと、自身の留学を通して反省させられた。これからもレッテルを貼られ社会で疎外されてしまう人達にシンパシーを感じて生きていきたいし、きっとそれが社会をより良くしていくという事の最初のステップなのだと思う。
 二つ目が、二次情報を当てにせず、一次情報を取りに行くべきということ。僕の場合、学長に会いたいと言ってAPUまで来なければ横山先生にも会えなかっただろうし、結果としてAPUに入学する事もなかったと思う。APUの偏差値は当時もかなり低かったが、そういう二次情報だけを頼りにしていればAPUに進学する事はなかっただろう。一方で就活でも、OB訪問など直接興味のある会社の社員さんからお話を聞きに行くことがなければ、上で述べたような就活観は築けなかったし、マザーハウスのような素敵な会社にも出逢えなかった。僕は気になる会社があれば、丸の内などそのオフィスビルに行ってランチのために出てきた社員の方に声をかけて、「大分からわざわざ来ていまして」とか適当な事を言いながら、そのままランチおごってもらうついでにOB訪問を何度かした。大それたことだと皆は言うが、高校生がAPUのキャンパスに来て「APU受験したいんです」と言えば誰だってチキン南蛮とナスの揚げ出しでもご馳走して喜んで話をするだろう。要はたくましさと図々しさを持ってGoogleの検索結果に出てこない情報、つまり生の声を取りに行っていなければ、会社の規模やみん就の掲示板に書かれている事を頼りに就職先を決めてしまっていたと思う。
 ネットに書かれている事とか、先輩が言っていたという二次情報を頼りに意志を固めて行動したら、失敗した時に他人のせいにしたくなる。逆に自分が直接見聞きした事を頼りに行動して失敗したら、他人のせいにはできない。自分を責めるしかない。でも、そこで他人のせいにせずに、もがく過程こそが「成長」なのだと思う。他人が作った作戦を実行した結果の失敗は本当に単なる失敗でしかないが、自分で情報をとりに行ってたてた作戦による失敗は、成功までの過程でしかないのだと僕は信じているし、それはAPUでの様々な経験からも言える事だと思う。



おわりに(後輩へのメッセージ)
 長い話を最後まで読んで頂きありがとう。こんな先輩の書いた文章を読むなんて、よっぽどの暇か物好きしかいないと思うが、APUの素晴らしいところは、どんな偉そうな先輩も卒業したらいなくなるという事だ。多くの組織は創業に携わった人が先鋭化し、新しく入った人を排除しようとして組織として保守化する。ベンチャー企業が抱える悩みだ。その点、APUはどんなにすごいと言われ功績を残した学生でも、卒業したらキャンパスにいない。それは寂しいことだけど、次の世代を作る人間は、背中を見せてくれる先輩がいなくなる事を不安がらずに、純粋にチャンスだと思って楽しんで欲しい。
 この2015年春に卒業する僕たちも、一回生の頃は真面目で元気がないと言われたが、そういう先輩は単に面白い後輩に愛想をつかされているので、周りに元気がない後輩しか集まらないだけだ。「今年の新入生は元気がない」というようなレッテルを次の世代に貼り、後輩の品位を落とすことでしか自分の存在価値を確保できないダサい先輩には成り下がらず、自分の物語を紡いで下さい。僕達はAPUのストーリーの一部ではなくて、APUが僕達一人ひとりのストーリーの一部でしかないという気概を持って、みんな幸せになりましょう。
インターンをした気仙沼ニッティング御手洗社長と>


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