2015年3月21日土曜日

立ち止まる自由


◯はじめに
大学生とはどういうものか。あるいは大学生活とはどうあるものか。これがAPUでの(あるいは高校生の頃からの)テーマだった。いきなり余談だが、東北大震災で被災した立教新座高校の校長先生がその年の卒業生へ宛てたメッセージでこのテーマに触れられている。とても説得的で綺麗な文章なので、是非目を通して見てほしいと思う。(URLhttp://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/)
話を戻そう。ここでは冒頭のテーマについてAPUでの生活の中で僕が自分なりに考えたことを書き残しておきたいと思う。また後半は僕の大学生活についても触れる。(参考になるかわからないので、興味がなければ正直読み飛ばして頂いても構わない。)
この文章が、まだAPUでの生活が続く在校生(あるいはこれからAPUでの生活が始まるみなさん)の最高の学生生活を送る上での一助になればと思う。


◯「勉強」から「学問をする」へ
上記の二つはいずれも「学び」という言葉の類似語である。では違いは何か。僕なりの答えは、「受動性」と「能動性」という性質の違いにあるように思う。高校までの画一化されたカリキュラムは(シュタイナー学校など例外を除いて)圧倒的に前者ではないだろうか。受動的な勉強はつまらない。僕も休学前まではそうだった。ただここに知的好奇心が付与される、つまり能動的になると世界は変わる。信じてほしい、本当に変わるのだ。
この先どの知識がどこで生きるかは誰にもわからない。ただ一見ばらばらに見える知識はどこかで有機的に繋がっていて、そうした「深い」知識を背景に持つ人の言動にはどんな話でも深みと説得力が生まれる。APU生の強みはコミュニケーション力やディスカッション力という言葉をよく耳にする。しかし残念ながら多くは教科書の冒頭数ページに書かれているような表面的な知識をペラペラと話しているだけのような気がしてならない。就活の面接はそれで通るかもしれないが、社会に出た後、圧倒的な経験値の差がある先達たちには通用しない。だから、どんな知識でも、意味を問わず、自分のフィルターで選別することなく、貪欲に吸収してほしい。APUは専門性がないという話もよく耳にする。間違いではない。だがそれも自分次第でどうとでもなるはずである。

◯最高の味方
自分にとって最高の味方は誰だろう。両親、兄弟、親友、恋人…。僕の見解を述べさせてもらう。それは間違いなく自分自身ではないだろうか。もう少し言えば自分自身であるべきだとすら思う。誤解しないでいただきたいが、現代は競争社会だから誰も信じるな、とかそういう寂しいことを言っているのではない。これは自己肯定の話である。人は困難にぶつかったり、不安になると、「どうせ自分なんて」と自分を卑下してしまう。ただ本当の困難に立ち向かい、それを打破できるのは、周りのサポートの有無に関わらず、結局は自分を肯定できる人間なのではないかと思う。だからどんな時にも絶対に自分を過小評価しないでほしい。自分に自信を持っている人はどんな困難にも立ち向かえるし、そういう人間に人はついてくる。逆に「自分なんて…」と言っている人間には絶対についてこない。もしも自分のコンプレックスが払拭できない人がいたら、迷ったらまずやってみる、選択で迷ったらより困難な方を選ぶ、チームワークでは誰よりも厳しいポジションを選ぶことを意識してはどうだろうか。人一倍流した汗は必ず誇りと自信に変わるはずである。

◯後悔のない選択
在学中に就活支援の真似事をさせて頂いていたので、就活の話を例に挙げながら書いていく(まだ就活が身近ではない人は大学選びをイメージしながら読んでほしい)。就活支援の際に、どのような軸で企業を選ぶか、という相談を受けた。企業の規模、事業内容、知名度やブランド、あるいは自分のやりたいこと、興味のある業種…。選択肢は尽きない。先の学問の話にもつながるが、本当のところは、「将来のことは誰にもわからない」のだ。大企業だって経営破綻する時代だし、自分の興味だって変わる。企業の知名度やブランドで選ぶなんて論外だ。大企業内定を自慢できるのは卒業までの数ヶ月である。社会に出た後は自分にいかに付加価値を付けられるか、いかに自分を売り込めるかというシンプルな個人戦である。その時になっても企業の看板を盾にしている人に誰も興味を持たない。大学選びも同じである。東大もAPUも本質的には大差はない。その中でどれだけ歯を食いしばって頑張ったか。そこで人の価値(魅力)は決まると信じている。
ではどうすればいいか。僕は自分の選択に後悔がないか、納得感があるか、だと思う。自分が納得感を持って選んだ道なら、そこに言い訳を挟む余地はない。なによりもその納得感はその先頑張るエネルギーになるし、逆に後悔は足を引っ張る。すでに社会に出た先輩たちの中でも、活躍しているのは選択した企業の種類などではなく、自分の選択に「自負」を持っている人たちのように思う。
だから大学ではチャンスを掴みに行ってほしい。保守的に自分の得意分野にとどまらず、未知の分野にも果敢にチャレンジしてほしい。そして普段から意識して、「これならば自分の一生をかけてもいい」と誇れる何かを探し続けてほしい。就活中に他大学の学生と話して気づいたが、APUに転がっているチャンスの数は他の大学より圧倒的に多い。しかも多くは学内外問わず多様にベクトルが向いている。井の中の蛙にならず、広い分野でたくさんのチャンスをつかんでほしいと思う。
これは大学での4年間は、自分の時間を他の誰でもない自分のためだけに使える、かけがえのない時間だったと卒業する今になって感じるからである。



ここからは、僕の学生生活を少しだけ。冒頭にも書いたように、参考になる保障はないので読み飛ばして頂いても構わない。

◯プロローグ
卒業を目前に控えて、僕が「大学生」として過ごした時間の長さに改めて驚かされる。6年。4年のキャンパスライフと2年の休学。様々な人に支えられ、この6年は文字通り「矢のように」過ぎ去った。
高校3年生の秋。僕は卒業後の就職を密かに考えていた。その頃の僕は二次関数のグラフの書き方とか、大昔の古墳の名前とか、そういったものを覚えることに嫌気がさし、なぜ勉強なんかしなければいけないのかと先生に突っかかり、だんだん学校にも行かなくなり、だからクラスでもどこか浮いていて友達もほとんどいなかった。家に帰れば親ともケンカばかりでどこにも居場所がなく、だから「早く経済的に自立して誰もいないどこか遠いところに行こう。」いつもそんなことを考えていた。しかし、その年は大不況(リーマンショック)の年。就職を断念したのは年が変わった1月。そこから、まだ受験でき、地元から遠くはなれた場所にあり、そして何よりも高校と同じ机に向かうだけの「勉強」以外の「学び」がありそうな大学…。APUを選んだのはそんな直感にも似たものだった。
後期試験を経た2009313日。僕のAPU入学は滑り込みで決まった。


◯最下位からのスタート
APUでの目標は「卒業したあとも名前が残るような、誰もしたことのないような経験をたくさんもった人間になること」に決めた。「僕の考える魅力的な人」がこれだった。
入学式の2週間前に入学が決まり、2日前に別府に引っ越した。APハウスの申し込み期限はとうの昔に終わっており、スタートアップ講座(スキルアップ講座?)なるものの存在は入学後半年に知った。同郷の知り合いなどなど当然いない。つまり、絶望的に友達がいなかった。というかできなかった。高校でも友達がほとんどいなかったのに(しかもずっと男子校だったので女の子がものすごいニガテ)、そう簡単に友達などできるはずがない。いきなり壁にぶち当たった。半年ほど授業と家の往復生活を送り、これでは何も変わらないと気づき、当時最大規模の部員数を誇ったボランティア系のサークルの門を叩いた。新入生のほとんどが退部するという厳しさで有名でここで自分を鍛えようと思ったからだ。しかし、半年遅れの入部は同期との大きな差を意味し、ミーティングの議論が全く理解できない。従って発言なんてもっと出来ない。そもそも先輩にちゃんと敬語が使えない。などなど、散々だった。どう考えても最下位からのスタートだった。そういえば後年、とある先輩に「おまえが一番にやめると思ってた(笑)」的なことを言われた。実際辞めたかったが逃げるわけにはいかなかった。大学生活は僕にとって崩壊しかけた人生を立て直す最後のチャンスだったからである。

◯APUの罠
そんなこんなで、2回生になる頃には少しマシになり、部署のリーダーに指名される程度にはなっていた。またこの時期はさらに力をつけようとワークショップのTAや当時新設組織だった学生オリエンテーションスタッフ(FLAG)の初代メンバーなども務めた。ただいろんなことをやり過ぎた。まず不規則な生活と睡眠不足で体がボロボロになった(布団から起き上がれなくて学校に行けない日が続いたこともあった)。それから全部が中途半端でたくさんの人に迷惑をかけまくった。APUはチャンスが多いと先にも述べたが、あくまでも人間には皆平等に124時間しかなくて、体は一つしかないということが前提である。そして何よりも、例えば3つのことを80%での完成度でするよりも、1つのことを120%の完成度に持っていくほうが難しくはるかに価値があるのだ。当時の僕は結果よりも、忙しい自分、頑張っている自分に酔っていた。側から見ていると見苦しく、本当にかっこわるかったと思う。

◯休学
この頃は、サークルに関連する開発学の勉強にのめり込んでいた。しかし、それ以外の勉強は相変わらずする気にならず、GPA1.8くらいだったと記憶している。海外留学には興味があったが、海外まで行っても結局大学で勉強するのはしっくりこない。それよりももっと現場的な、実践的な学びを…。休学して海外NGOでの研修を選択したのはこんな考えからだった。研修先は大学のサークルが行っている活動(地域に根ざした教育支援)と同種の活動を展開していたガーナのNGOを選んだ。ガーナ人が代表を務め、設立2年目と若く、スタッフも僕を入れて56人という規模感だった。ものすごいスピード感で、初日に組織概要を聞かされてすぐにファンドレイジング(現地企業と交渉して資金獲得)、加入1週間で図書館建設プロジェクトのマネージャーとかになった。意味がわからない。日本のブラック企業とか目じゃない。家は壁が穴だらけで、気がつくと野生の鶏とかが僕らの大事な食料()を我が物顔でついばんでいる(しかも朝4時とかから鳴くから起こされる)。水道が通ってないからトイレもシャワーもない(体は雨水をためたバケツでたまに洗う)。雨が降ると停電する。食料は内陸で首都から距離があるため、野菜(トマト、タマネギ、イモ、白ナス、オクラのみ)とパンとメイドインチャイナのトマト缶でしかないからいろいろ頑張る。いろいろ頑張るけど、結局毎日同じものしか出来ない。調味料は塩コショウと油。なぜか油が味付けの選択肢に入っている。しかもめっちゃ入れる。だから村にはマツコデラックスみたいなおばさんがいっぱいいる。宗教は興味ないって言ったら協会のシスターに罵倒され、知らないおっさんに3回くらい娘(15歳くらい)と結婚しないかといわれ(丁重にお断りした)1回マラリアで死にかけた(あと3日遅かったら手遅れだったらしい)

ガーナはとても素敵なところだった。
ただNGO活動は将来の選択肢から外した。
きっかけはマラリアの時に大変お世話になった、在ガーナ歴40年の日本人会会長さんと話したことである。かれは現地に身一つで行き、ビジネスをいくつも立ち上げていた。「支援活動で自分や家族を養えるのか。自分すら困窮している21歳の若造に助けられる人間がいるのかい。まず自分の基盤を作って、成功して金持ちになって、そしたら『昔、実はNGOで活動してたんだよ』とか言いながら趣味でやればいい。」彼はそう言った。その通りだと思った。
休学から約半年、僕は日本に戻った。

◯新天地
休学してステップアップするつもりが白紙に戻ってしまった。なかなか珍しいケースだと思う。支援活動を基準にした将来設計は崩れたが、あの地で培ったバイタリティーは無駄にはならないはず。むしろ自分の強みとして獲得できた力なのではないか。そこでどこかの番組企画のように、わずかな所持金で渡航して現地で生活費を稼いで生き延びられるか、を試そうと思った。海外でお金を稼ぐのはビザの関係で意外と難しいことなのだが、世の中にはワーホリという素晴らしいプログラムがある。渡航先はカナダに決めた。仕事を探すなら都会。カナダの最大都市トロントに拠点を置いたものの、なかなか仕事が見つからない。さすがに大都市。所持金だけはガンガン減っていく。このままだとカナダでホームレス。就活のネタにはなる。そう思った矢先、メールが届いた。事前に求人コミュニティーサイトに掲載しておいた履歴書に興味を持ってもらえたのだ。場所はアラスカのまっ隣。北緯61度、気温は常にマイナスに達する極北の田舎町・ホワイトホースでのガイドの職だった。迷っている時間はない。こうして現地最年少ガイドが誕生した。現地到着後、すぐに現地の自動車二種運転免許をとった。契約はドライバーガイド兼通訳で1024人乗りのバスを乗り回す仕事だった。最大で零下40-50度に達する環境で昼は犬ぞりや動物保護区、夜はオーロラ観測のガイドとして働いた。働きまくった。2月は勤務時間が358時間だった。ブラック企業を通り越して漆黒企業だった。おかげで生活費どころか、ここでは言えないくらいの貯金を作ってカナダの生活は幕を閉じた。

◯復学・就活
正直、大学もすべて止めてホワイトホースで暮らしたかった。帰国に至ったのは、「いつか日本に帰れるように基盤だけは作りなさい」と日本人のガイドの大先輩に諭されたからだったが、あそこ以上に魅力的な職場がなければ、卒業後にまた戻ろうと真剣に考えていた。僕の就活はこの軸で始まり、この軸で終わったように思う。正直、成し遂げたい事業があったわけでもないし、興味がある業界もなかった。だから、「ここで働きたい!!」と強烈に思えるような出会いを求めて企業接点を持ちまくった。方法は簡単で、説明会やイベントに出る→(いい意味で)目立つ→人事の方から連絡先をもらう→連絡を取り続ける→社員さんや偉い人との面談をセッティングしてもらう。といった感じだ。最終的に10社くらいの面接を受けて、5社から内定をもらった。その中で一番人的な魅力をかんじたのが今の内定先である。

○おわりに
卒業を間近にして、初めて自分のAPUでの6年間を書き起こした。進むにつれて筆が進むようになったのは、書くことに「慣れた」からではなく、楽しい思い出が増えていったからだ(心なしか文体も楽しいものに変わっている気がする)
APUでは本当にたくさんのことを経験させていただいた。そしてなによりも、仲間に恵まれた。彼らがいなければ今の僕はない。この場を借りてお礼を言わせてほしい。本当にありがとう。
これからは、これまで僕が与えられたものを、次の世代に還元していきたいと思う。

2015313日の金曜日。僕はAPUを卒業する。
その日付は奇しくも、僕のAPU入学が決まった6年前のあの日と同じである。


長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。



◯謝辞
自分のことを外に開示するのが僕は苦手である。というかものすごく恥ずかしい。この文集も〆切を2週間以上オーバーしての提出になってしまった。そんな筆の遅い僕にもこのような素晴らしいチャンスを与えてくれて、かつ書き上がりを根気強く待ってくれた深川君に特別な感謝を。


2015.3.19 
的馬佑弥

(極北旅行から帰還直後。日本の暖かさを噛みしめながら。)

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