2015年3月15日日曜日

大学生活は誰と出会うかで決まった ~続けることで見えてきたもの~

卒業文集「Will
大学生活は誰と出会うかで決まった
~続けることで見えてきたもの~
目次
第1章         石下卓憲について
11 はじめに ~今回卒業文集を書こうと思った経緯~
12 プロフィール紹介

第2章         大学1年生
21 高校時代までの自分/APUに入学した経緯
22 大学生活の転機 ~はじめてのフィリピン留学~
23 フィリピン留学帰国後~ピーターとの出会い~

第3章          ~APUで活動を開始~
31 留学エージェント「Serendipity Consulting」始動(2年春)
32 交換留学(アメリカ St.Edward’s University/交換留学中留学(3年春~4年春)
33  第5回留学プログラム ~過去最大参加者70名留学プログラム ~
34  休学:起業に挑戦(4年春から休学1年間)

4  最終学年での活動
41 復学前 最後の夏休み 第6回:2014夏留学プログラム
42 復学後 最終セメスター 2015
~次世代に繋げるバトン~(4年秋)


5章 おわりに 
~大学生活で学んだこと、心がけていたこと~








第1章         石下卓憲について
11 はじめに ~今回卒業文集を書こうと思った経緯~

 今回は、このような形で卒業文集を書く機会が得ることが出来て、とても嬉しい。ルームメイトであり、発起人の深川君には感謝している。 今までの大学5年間を言葉にすることができた。この文集を書くにあたって自分のAPU生活を振り返ったが、常に刺激的で、本当にあっと言う間に過ぎり、入学した時のことがつい最近のことだと感じる。
自分の大学生活は幸運にも、様々な人との出会いが転換点になり、大きく動き様々な社会経験をすることができた。最初は活動内容すら決めずに集まった仲間で行動を開始したが、
とにかく我武者羅に活動したことで、自分が大学生活をかけて打ち込めた“フィリピン留学のエージェント”というものを見つけることができた。最初は、友達に自分が行ったフィリピン留学の良さを知らせてあげるために旅行を企画したのが、本格的な留学エージェントという仕事にまで発展して、気づけば、起業という形にまでなっていた。結局は上手くいかなくなり、身に染みる挫折を経験もしたが、今振り返れば、あの経験が少しばかしながら、甘い自分を強くしてくれたと思う。海外に出たのは、APUに入学後だったが、旅行、フィリピン、グアテマラへの短期留学、アメリカへの交換留学を通して、海外というものが自分とは無縁の遠い向こうの世界だと思っていたが、海外という刺激的な世界が広がっているということにも気づけた。今回、卒業文集を書こうと思った理由は、自分の大学生活を振り返る機会にしたかったからである。実際に今まで大学生活をゆっくりと振り返る機会はなかった。実際にFacebook等での昔の写真を見返すと、忘れていたことの多くが思い出されてきた。嬉しかったこと、楽しかったこと、ワクワクしたこともあったが、
同時に悲しかったこと、悔しかったこと、凹んだこと等本当にいろいろあった。また、今思えば、自分の身勝手な行動や横着な態度等で友達やお世話になった方々に多大なるご迷惑をおかけしたこともあったが、その度暖かく指導、気にかけてくださった方々にこの場を借り感謝の気持ちを伝えたいと思う。本当にありがとうございました。自分が思うのは、APU生はいい意味で変だと思う。皆それぞれが同じ方向に向かう大学生活なんておもしろくないので、APUがこうあるべきだとか後輩にこうなって欲しいということをとやかく言うつもりはない。ただ、自分がどのような思いや考え方を持ってAPU生活を送ってきたかや、その時々に感じたこと、考えたこと、発見したことを思い出しながら綴っていく。卒業生にこんな人もいるのだなという軽い気持ちで読んでもらい欲しいと思う。また、文章が長いので忙しい方は、目次を見て、興味のある部分だけを参照してもらえるだけで大歓迎である。




12 プロフィール紹介
【フィリピン:セブ島にて】
第1章        第二章 大学1年生の頃の自分
21 なぜAPUに入学したのか?/高校時代までの自分

 なぜAPUに進学したのと聞かれるのは、よくある質問であるが、自分の周りの友達は、将来国際的な仕事に興味がある、留学をしたい、他の大学に合格したけど、そこを蹴ってAPUに入学を決めた等前向きな理由で、多くの選択肢の中からAPUを選んできた人が多かったと思う。自分も、日頃質問をされたら「国際的な環境に興味があったからだよ」と適当に答えることが多かったが、実際はそんなかっこ良い理由等なかった。恥ずかしながらも、自分のAPUへの入学理由は簡単で、受験に失敗してAPUからしか合格通知を受け取ることができなかったからである。
そのため、自分がAPUに来た理由は高校時代の影響も大きく関わっていると思うで大学の話に移る前に、まずは自分の経歴を高校時代から遡って説明させて頂きたい。自分は福岡出身であり、高校は幸運にも県下で有数の進学校に進学することになった。APUでも、その高校の名前を出すと、知っている人であれば頭良いですねとか言われることもあったが、それはあくまでも高校のレベルが一般的に高いだけであって、身分不相応にも入り込んでしまった自分は絵に描いたような進学校の“落ちこぼれエリート人生”を歩んできた。
また、勉強も部活もあまり思うようにいかなかった。中学時代までの自分は、意外にも優等生タイプで、生徒会長までしていた真面目な生徒であったので、落ちこぼれになったギャップは本当に大きかった。
今思えば、当時の自分は、高校に合格したことに浮かれていて、自分の立ち位置を勘違いしていた。自分は所詮ギリギリで合格できたくらいの実力であったのにかかわらず、それに気がつかずに、努力を完全に怠っていた。そんな自分には進学校での授業スピードはとにかく速く、授業についていくことが難しかった。1年生の頃は、なんとか授業についていけたものの、学年が上がるにつれてだんだん授業の内容が理解できなくなっていった。3年生になると、授業を聞いてもほとんど内容が理解できないので、退屈で授業中に居眠りをしまい、ますます授業についていけなくなるという負のサイクル状態に陥っていた。本当に無駄な時間を過ごしていたと思う。最初は、少しずつのサボりの代償は大きく、気づけば自分にはどうすることもできない状態になっていた。また、部活は高校3年間バレーボール部に所属していた。中学時代もバレー部であったこともあり、高校に進学した際にふとした誘いによってバレー部に入ることになった。自分は別段上手くはないのだが、顧問の先生は厳しかったので、しっかりと扱かれてチームメイトと熱心に練習することでなんとか3年間乗り越えることができた。言い訳には、なると思うが、土日もしっかり練習があったこともあり、勉強をした記憶がほとんどなく、予習等も基本的にはしなかった。
そのため、勉強というものからすごく離れていた。


自分の当時の様子を表すエピソードとして、今でも印象的な授業中の出来事が2つある。
1つ目は、3年生の英語の授業中での出来事だ。当時自分の一番の不得意科目はダントツで“英語”だった。基礎的な単語、文法が全然頭に入っていなかったので英語の長文を読むのも、英語を聞くのも、書くのもとにかくわからなかった。その日の授業内容は英語の構文をクラス全員で読解し、その文章構造を当てられた学生が、前に出て先生に代わってクラスメートに説明するというものであり、基本的に、1人ずつ席の順番に当てられ、授業は進んでいく。だが、当時の自分は、プリントをにらみ、当てないでくれという“無言のオーラ”を出すのが上手かったのだろう。その時は、先生は自分だけ飛ばして当てるのを飛ばし、何事もなかったように授業を進めていた。その時は、なんとか乗り切ったと思っていたが、今考えると残念な学生である。クラスの前で恥をかかせないようにしてくれた一種の情けだったかもしれないし、受験も迫る大事な時期に落ちこぼれの自分に無駄な時間を使いたくないのもあったかもしれない。ただ、あの時の思い出は鮮明に今でも覚えている。
また、2つ目は社会の授業時間での思い出である。落ちこぼれの自分でも、唯一得意な科目があった。それは、“社会科目”だ。社会科目と言えば、日本史、世界史、政治経済、地理等だが、これら科目は総じて成績が良かった。特に、地理の世界地図帳を眺めるのは大好きであり、世界の国の都市名、国旗等とにかく覚えていた。なぜ好きかという理由はわからないが、幼いことから、社会科目にまつわる社会の動き、仕組みをとにかく知りたいという好奇心が強く、こんな自分の知らない世界に行ってみたいなと妄想を膨らませていた。そんなエピソードとして、ある日の授業中に先生が「硫黄島の戦いの際の日本人の総司令官を知っているか」という質問をした時に、自分が「栗林 忠道中将です」ととっさに答えたことがあった。当時はなぜか、たまたま知っていたことなのだが、これ際クラスのみんなに驚かれた。クラスの友達にも「そういえば石下は物知りだもんな」と褒められ、かなり嬉しかった記憶がある。唯一の長所だったが今考えると、そういう幼い時からの興味がAPUへの興味に繋がってきたかもしれない。実はそんな中で、高校2年生の頃に1回だけ留学したいなと思って担任の先生に相談したことがある。たまたま1つ学年の上の知り合いの先輩が留学をしていたからだ。その時は本当に自分の置かれている境遇から逃げたしたかった。しかし、もちろん担任の先生はそんな話をしないで目の前の勉強を頑張りなさいと言われた。英語も最悪の成績なのにこいつは何を言っているのだという感じであしらわれた。
そうして、結局自分の状況を変えることは出来ずに現役時代の受験は見事に全滅し、東京の大学を目指すために予備校に通うことになった。今回は予備校時代の話は省略するが、浪人をしたが、結果は惨敗。冒頭で述べたようにAPUのみから唯一合格通知をもらった。当時は、1年間勉強したのに、この結果であるという落胆と、後悔していた。今思えば、時間だけの勉強で満足していた自分がいたのかもしれない、詰めの甘さもあったと思う。
【地図帳:三原先生からメッセージをいただいた】
ただ、受験が終わり、入学までの期間は、周りの高校の同級生が有名校に進学していくのを見て、みじめな気持ちでAPUへの入学手続きを進めていた。当時の自分は良い大学に行き、良い会社にいくことが人生の向かうべき道であるという価値観であった自分は、当時の状況を人生が完全に終わったと思い、自分の人生に悔んでおり、少し捻くれていた。ただ、今思えば、APUに入学できて本当によかったと思うし、受験校に加えてAPUを受験しておいてよかった。浪人時代の英語の勉強がかなり役にもたった経験からも過去の解釈は変わるものだなと実感している。以上が高校時代からAPU入学までの出来事であるが、このような変遷を経てAPUに入学することになった。

冒頭で述べたように入学時はどちらかというとネガティブな感じで劣等感の塊人間であった。また、浪人時代も当時地理の先生で大変お世話になった先生がいた。三原先生というのだが、先生は休みの日は、世界を周る旅をされていたのでその度の話を聞いて、地図帳を見ながらいつかは外国に行ってみたいなと漠然ではあるが想像しながら勉強していた。やはり、地理の成績だけはよかった。
22 大学生活の転機 ~初めてのフィリピンでの衝撃経験~
 前項のような経緯で、APUに入学した。受験の失敗による劣等感と虚栄心があり、当時の自分は本当にひねくれていた嫌な奴であったと思う。恥ずかしながらも、この俺がなんでこのレベルの大学にいなきゃいけないのだと本気で思っていた時期もあった。同時に、“危機感”もあり、どうにか大学で行動しないと本気で人生が終わるとも感じていた。


【英語クラスのコリン先生】
そうするうちにAPUにして、最初の課題が待っていた。それは、「英語」である。いわずもがなであるが、APUでは、英語の上手さがステータスになる部分があると思う。さすがに浪人を経験していたので、英語の知識はましにはなっていたが、スピーキング、リスニングは全く駄目であった自分であったが、同じ新入生でも、英語を流暢に話すのを見て驚いた。英語の授業を真面目に受講したら、上手くなるだろうと思い、真面目に授業を受けて、好成績を維持していたが、やはり思うように英語力が伸びない。APハウスに住んでいて英語を使える環境が多かったのだが、せっかくの環境を活かせない自分に対して少し自己嫌悪であった。このままでは、受験、浪人にも負けた俺が、またこの大学で負けるのと思って悶々とした毎日を送っていた。
そんな中で、同じ英語クラスの中で一番英語のできる先輩に相談したら、
「フィリピン留学に行けばいいんじゃないのかな?俺も行ったしスピーキング伸ばすのにもってこいだよ!!」と教えてくれた。フィリピン留学って当時は聞いたこともなく半信半疑であったが、先輩が行ったのならこれだ!と思い親に頼み、最初で最後の留学という約束で6週間フィリピンのセブ島に留学させてもらった。今思うと、この決断がなければ自分のAPUの生活はまた大きく変わっていたのだと思う。当時は結果的にその後8度フィリピンに行くことは全く想像もしていなかった。
フィリピンに留学することは、今でこそ人気になってきているが、4年前はそうでもなく、日本人留学生は珍しい存在であった。フィリピン留学の特徴を簡単に説明すると、
1、値段が安い 2、マンツーマンの授業がうけられる 3、英語がどこでも使える
である。実際に“格安で留学できる”という謳い文句で多く学生や社会人が留学している。現地の人件費が日本に比べて安いために、生徒1人に対して、先生が1人ついて教えてくれるシステムが可能であるので、とにかく喋るのが好きな人はスピーキング、リスニングを伸ばすにはもってこいである。先生の英語力はというと、英語が公用語であるフィリピン人の先生達の英語はとても上手い。APUの国際学生と比べても非常に上手なレベルにあたると思う。初めてのフィリピン留学で、6週間を通してとにかく、“スピーキング力を向上させる”ということを目標にしていたので座学はさておき、スピーキング重視でとにかく喋りまくった。
休み時間でも、お気に入りの先生のところに通い、とにかく喋ることに集中していた。フィリピン人は陽気な人が多いため、会話も弾むし、とにかく楽しい毎日を送ることができた。英語を学ぶのではなく、コミュニケーションのために英語を使うという状況であったのでモチベーションも高かった。同時に、勉強と同じくらいとにかく外に出て遊んだ。
英語を使ってとにかく喋る瞬間を作ろうとだけを心がけ、知らない人にも声をかけまくった。その当時は、浪人時代の勉強がインプットされていたことが大きく、少しずつ受験勉強の際の英語力に戻っていくのを感じた。これを自分の中では“リハビリ”と呼んでいる。

そのため、受験勉強で忘れかけている英語能力を元に戻すリハビリのために、ある程度勉強はしていたが、今は忘れてしまった人にとって、この留学システムを上手く使うのはとても良いことだと確信している。また、番外編として自分の場合は恋パワーも良いモチベーションになった。とにかくその子と喋れるようになりたいという一心で、質より量を重視してとにかく喋る練習をした。詳しい内容は別の機会として今回は割愛させていただくが、興味がある人がいれば質問してくれればと思う。

その他にも、良いチャンスに巡りあえた。自分が通っていた学校は、映画業界に行く人のために専門学校があったのだが、たまたま声をかけてもらい、ヒロインの相手役として、
短編映画に出演させていただく機会があった。自分の雰囲気が監督のイメージしていた韓国人の役にぴったりだったそうだ。まったくの演技初心者なのではあるが、気合で2日間かけて、セブ島全域を周って撮影を行った。撮影メンバーはアメリカ人、スウェーデン人、フィリピン人、中国人、韓国人と多国籍であったので良い経験をすることができた。
このようにして初めてのフィリピン留学は良い人に恵まれとても充実したものになった。

23 フィリピン留学帰国後~ピーターとの出会い~
【ピーター】
 楽しい留学生活は嵐のように過ぎ去っていき、新学期が始まった。帰国後嬉しかったことにAPハウスで仲良かったタイ人の友達から「英語上手くなってるね」と言われたことだ。これが、自分の中でとても嬉しかった。また、TOEFLという英語の試験の結果も見違える程点数が伸びていたので留学の成果を実感できた。そんな中、ピーターとの出会いによって、自分に大きな転換点であったと思う。彼は韓国人なのだがフィリピンのセブ島育ちであり、自分より半年遅れてAPUに入学してきた。寮のフロアが一緒だったので話をしたときに、たまたま彼がフィリピンのセブ育ちだということと、自分がセブに行ったことがある経験から意気投合した。そして、彼とは、とても仲良くなり、1年生の冬休みには彼の実家のあるセブに渡航し、2週間彼の実家にお世話になった。そうする中で、2回目のセブでますます好きになった自分にピーターがおもしろい話を提案してくれた。

その提案とは「知り合いに新しく出来た英語の語学学校を知っているから、一緒にAPUの友達を集めて、セブ留学を企画しないか」ということであった。友達を誘っていけば、全員が定価よりも安く留学に行けるし、自分も自身も安く行ける」ということであった。そういう経緯で、彼と一緒に、資料作る等の準備を重ね友達を誘い、初めて2011年夏に
留学企画を取り組んだ。今振り返ると、この時作った資料はチラシ数枚程度で簡素なものであったが、15人もの友達がよく参加してくれたものである。笑
そんな誘いなのにかかわらず信頼して来てくれた皆に感謝一杯である。その時は、とにかく楽しかった自分の留学経験と同じようにセブを体験して欲しいなという思いで、平日は勉強して、休日は思いっきり遊ぶことをピーターと彼の両親に協力してもらうことによって取り組むことができた。

2011年夏:第1回目のセブ留学の様子】

    そうして、気が付けば次の長期休にピーターと共に第2回を企画した。この際も同じような感じで団体旅行のような形で留学し、共に勉強、遊びに励んでいた。

2012年春:第2回の留学の様子】



【セブの道端での柘植との出会い】

 そんな留学中に偶然の出会いが起こった。その人は柘植竜太と言い、大学生活を大きく変えてくれた1人である。彼は元々高校時代の3年生時のクラスメートであるのだが、別の大学に進学し彼もたまたまフィリピンに留学に来ていた。高校を卒業して2年ぶりに再会したのだが、その場所はセブ市内のスーパーに行くまでの近所の道端であり、たまたますれ違った。世界は狭いというか、なんとも偶然なのであるが、その再開がきっかけで彼も留学企画に加わり、彼の通う九州大学のある福岡とAPUで共同留学プログラムを作ろうということになった。この出会いがきっかけで留学エージェントの原型が出来ていった。今思えばしかるべき偶然ってあるのだなと感じる。

3-1 「Serendipity Consulting」始動(3年春)~本格的な留学プログラムを九州で開始~
フィリピンから帰国後、柘植と共に次期のプログラムの企画をスタートさせた。過去参加者から2名とすでに現地の語学学校でインターンをしていた春山3名がスタッフとして参加してくれることになった。こうして、友達同士の旅行企画から、個人事業主「Serendipity Consulting」という形で、新たに加えた語学学校計2校と提携し、留学プログラム運営をするようになった。
Serendipity Consultingの由来であるが、“Serendipity”とは“思いがけない偶然や発見に出会う”、“世の中には、実はチャンスがいっぱいあふれている。目に見えないだけで、そこにもあるしここにもある”等の意味である。自分達はフィリピンに参加者が留学することによって、日本ではない新たな気づき、新たな行動のきっかけになって欲しいと思いをこめていた。
【運営メンバーの石下・柘植・春山
金銭面の運営資金としては語学学校からのコミッション(謝礼)という紹介料でスタッフの渡航費等を賄い運営できるような仕組みにした。結果的に、留学の参加者はAPU生のみならず、福岡の大学生にまで拡大し全体で35名を超える参加人数までに成長した留学プログラムになった。
プログラムの内容は、自分達が提供できる留学プログラムは何が他の留学エージェントと違うのかを示さないといけないという意識でコンセプトを練っていた。どの留学エージェントを通しても、留学料金は一律で決まっているのではあるが、同じ料金だとしても、自分達が付加価値をつけることによって、留学プログラムの価値がぐーんと上げればプログラムの価値も上がると考えた。
その結果として、自分達スタッフが同行することの他に事前勉強グループを作ってグループ学習を実施や、事前学習教材を製作、また現地でのアクティビティ企画の実施をして差別化をしようということになった。アクティビィティとは、スキューバーダイビングのライセンス取得、現地の小学校にて炊き出しや交流会をするボランティア企画、バーを貸し切り現地で働く社会人の方とセブで勉強している学生との交流会等を実施した。失敗も多くしたが、試行錯誤しながら、参加者にとって価値を感じられる企画にしたいという思いで取り組んだ。

2012年夏:第3回プログラム】 


そうして、第3回の留学プログラムの企画も怒涛のように過ぎ去っていった。今までとは違い、初めて知り合った30名以上を連れてフィリピンに降り立った際は今までにはない規模間で取り組んでいるのだという達成感にアドレナリンが出る感じがして、ものすごいワクワク感を感じることができた。恥ずかしながらもあの時は少し傲慢になって、天狗になっていたかもしれないと思う。実際に自分達が企画したものが現実となって実行されていくということに対して俺達意外とすごいかも、高校時代の借りは返したぞと思っていた自分がいた。しかしながら、今考えると当時の自分の態度はチームのメンバーには迷惑をかけたことも多くあったと反省している。自分のことばかり考えて自分がいた。やはり、仲間がいたからこそ、大きなことが成せたということは間違いないということだと思うし、チーム作りに反省点はあった。途中で衝突やトラブルもあったが、その都度学べる教訓は多くあった。また、自分は交換留学でテキサスに留学することになっていたので、先にフィリピンを発ったが無事にプログラムが終わり、次期の留学プログラムは柘植と春山中心に引き継ぎ、後は託して留学に参加した。この時期交換留学をするか、留学を辞退し本気で留学エージェントを立ち上げるかは本当に迷ったが結局は夢であった留学を選んだ。


3-2 交換留学 (アメリカ St.Edward’s University/グアテマラ短期留学
3年春~4年春)
 Serendipity Consultingが始動し、初めての留学プログラムが終わり秋からテキサス州のSt.Edward’s Universityにて1年間の交換留学に参加した。留学先の選定理由は、特に興味を持っていたEntrepreneurship(企業家精神)の授業が充実していたのと、圧倒的な少人数教育(1クラス20人以下)に魅力を感じたからであり、高校のような授業の雰囲気であった。日本では授業そっちのけで課外活動にばかり勤しんできたので、留学中では勉強に集中しようと決めていた。そのため、留学当初はきちんと授業を受け、課題等をこなしながら授業を受けていた。しかしながら、数か月経ち、だいぶ生活と授業慣れてくるとある意味で手の抜き方もわかってしまい授業だけでは、時間が余るようになった。これといって趣味やすることがなかった自分はネットサーフィン等かなり無駄な時間を過ごしていた。
やはり、1学期目は行動が軽すぎたかなという感じであるので、正直留学先でもっといろんなことに挑戦して負荷がかけられたと反省している。そのため、もし交換留学に今後行く機会がある人は、授業+αで何かしようと主体的に求めた方が良いと思う。
また、大学ではアジア人が1%以下だったのでとにかく珍しがられた。特に人種差別というものは受けたことはないが、やはり区別はされていたかもしれない。気の置けないアメリカ人の友達を作ることは難しかった。そのため、ヨーロッパから来た同じ交換留学生とよく過ごしていた。
留学した人にはわかるかもしれないが、留学生には意外にも“孤独感”というものが感じると思う。言語の問題以外にも要因はあると思うが、あまり自分自身友達を作るというものが上手くできなかったと思うし、正直日本人が自分含め2人という環境は少し少なすぎて寂しかった時があった。もちろん、英語の向上のためには、日本語を全く使わない環境を強制的に作ることが重要なのだろうとは体感できた。実際にリスニング能力は格段に伸びたのを実感できた。ただ、最初の1学期目は今までの日本でのエキサイティングな大学生活とはうってかわって、想像以上に楽しくない留学生活に嫌気がさし、日本に帰りたいなとふと思う典型的な留学生のホームシックのようなものにかかっていた。
そんな中、1学期が終わり、冬休みは寮で友達になったグアテマラ人の友達を訪ねて1か月のスペイン語短期留学した。なぜかと言うと、冬休み1か月寮が閉鎖してしまうので、どうにか過ごさないといけなかった。当初スペイン語能力はまったくなかったが、メキシコと国境を接しているテキサスには多くのヒスパニックと呼ばれるスペイン語を母語とする人が多くキャンパスではスペイン語が飛び交っていたので非常に興味をもっていた。そして、たまたまグアテマラはスペイン語を学ぶ学生のためにマンツーマン授業を受講できる絶好の場所であることを知ったのもあり、おもしろそうだし、どうせなら、徹底的に勉強しようと考え、グアテマラの語学学校に通い、16時間のマンツーマン授業と自習を繰り返した。
そうして、1か月にはある程度日常会話が成り立つようになった。アメリカに帰国後、スペイン語Ⅱの授業を受講したが、すんなり受講することが出来た。
アメリカに行ったのだから、英語を勉強しろと言われるところだが、実際にその後の留学生活でスペイン語が大いに役に立った。グアテマラ留学を通してやはり、短期留学という手段は使い方次第でとても意義のあるものになると実感できた。話す、聞くから勉強を始めたほうが本当にコミュニケーションに必要なものから学んでいくので非常に効率が良いと思う。スペイン語学習に興味がある人は是非グアテマラ留学を検討して欲しいと思う。とても良い国であった。



グアテマラからの帰国後は少しずつ留学が楽しくなっていった。交友関係も少しずつ広がっていき、週末はよく皆で集まってパーティーをしたり、出かけたりしていた。結果的にスタートダッシュはあまり上手くいかなかったが、最終的にかなり充実したものになった留学生活であった。


【いつものメンバーでパーティー】




35回留学プログラム ~過去最大参加者70名留学プログラム ~

留学から帰ってきた年の夏に第5回の留学プログラムを始動した。自分が留学中に仲間達が第4回を無事に成功させてくれたおかげで、自分達の活動は更に拡大していった。APUの学生15人から始まったプログラムであるが、第5回は九州中心の大学生70人を超える人に参加をしていただいた。大人数のために提携する語学学校も1校増やし3校体制で対応した。 現地では、古着を集めたボランティアプログラムや、セブに在住するビジネスマン達中心に集まる野武士会の協同運営、新規語学学校視察等多くの仕事があった。まさに、修学旅行の際の添乗員を1か月していたようなものであり、この人数規模であってもスタッフの人数は変わってなかったため、かなり仕事量があった。この時自分達は規模の拡大をどんどんしていこうという方針であったので規模は拡大発展していったのでよかったのだが、本当に顧客目線で満足度を上げることが出来ていたかどうかは課題が残るものとなった。また、参加者が増えていったことにより、スタッフの人で不足で顧客目線のサービスというものがしっかり手が届かずにただの留学を紹介するエージェントになっていたという反省もあった。 

【野武士会】



【第三回全体参加者】

3休学:起業に挑戦(4年春から休学1年間)
【起業までの経緯】


交換留学先のアメリカから帰ってきた4年生の春に紹介を通してフィリピンでオンライン英会話の事業をしているAPUの先輩に出会ったのがきっかけで、留学プログラムとオンライン英会話を一緒にしてよりよいサービスを提供しようと声がかかり、2つ返事で休学することを決めた。その際、自分の元々のパートナー柘植と2人でその先輩の会社にジョインし、2人で貯めていたお金を出資し、その会社で留学事業を今までの自分達の活動から改善したコンセプトで0から作りあげスタートさせた。具体的な内容はビジネスプラン作成、市場分析、ホームページ作成、営業資料作成や現地の提携語学学校との提携、フィリピンでオンライン英会話の新オフィス立ち上げ等の準備期間を通してサービスをスタートさせた。当時は福岡から上京して本当にお金がなかったので、夜はゲストハウスに泊まり込みバイトをして、日中はオフィスで働き、自分で貯めた貯金を切り崩しながら東京でなんとか暮らしていた。両親には啖呵きって上京をしていたので1人でどうにか生きていたが、収入がなくお金が出ていくだけの日々はとても不安だった。当時はお金のありがたみを本当に感じ、自分は所詮親の傘に入ってぬくぬくと生活しているんだなぁと感じることができた。
【困難】
そんな中で事業スタート後、3か月程経ち、メンバー内での馬がだんだん合わなくなり、少しずつ信頼関係が崩れていった。その後、あるきっかけでメンバー内の人間関係が決定的に悪くなったのが主な原因で事業を半年で終了することになった。いろんな要因があったのではあるが、結果的に当時の自分は“希望”を持って取り組んだ事業がこのような内部の問題という形で失敗し、事業を解散することを決定したことにより“希望”も“人間関係”も“資金”もすべてが修復できないレベルまで吹っ飛んだ。 今までやってきたものがすべて崩れ去っていくという虚無感と同時に甘すぎた自分に不甲斐なく、自己嫌悪ばかりを感じた。ただ、その時の精神状態は寂しさ、悲しさ、虚しさ、自分への不甲斐なさ等多くの負の感情にあふれ、心の中にポッカリと自分の大切にしたものがなくなり、穴があいたような気分だった。当時は、自分としても人生で一番落ち込んでいたと思う。腑抜けの無気力人間になっていたらしく、「目が死んでいる、大丈夫?」や「お前の顔やばいからとにかく休んでくれ」等友達から暖かい言葉をかけていただいた。

家族や友達に啖呵きって東京に行ったのにこんな結果になると友達や家族にも報告できるはずないと恥ずかしかったということはもちろんあるのだが、それ以上に自分達が立ち上げた、留学エージェントの名前等すべてを結果的に手放すことになったので、まるで今まで可愛く育ててきた子供をいきなり失ったような思いでとても悲しかった。当時は本当に自分の目線ばかりを考えて、行動していたのが悪かったと思う。メンバー間でもぅと助けあっていけばこの問題は防げたかもしれないし、それも自分が気づき行動することができなかったという結果である。仕事は結局人と人とのものになるので、“人”に関する組織、チーム作りによって会社自体がかなり変わると思う。あの時のような失敗は社会人になっても絶対に二度と起こさないという教訓になったし、自分主体の考えの人間では、能力に関係なく自滅する可能性が高いということが肌で感じることができた。
だが、1か月程度引きこもり、あるときからその精神状態を乗り越えるにはぐずぐずせずにチャレンジをするしかないと思い自分を立て直すために3つの試みを行った。1つ目は就職活動で、就職活動をして、エン・ジャパン株式会社から内定をもらうことができた。なぜ、エン・ジャパンかということなのだが、やはり“人”というものをもっと深く知り、HR領域のプロになりたいと思ったことが大きいと思う。2つ目は、本をジャンルに問わず読み漁ることをした。自分は結局何をしたいのか?何をするべきなのか?等を毎日悶々として考えていた。当時のエピソードとして、その頃はアマゾンから本を頼み過ぎていた。そのため、ルームメイトからはたまたまその中の1冊が自己啓発に関する本であったので「自己啓発野郎」というあだ名をつけられてしまった。そして、3つ目は、フィリピン留学に関する活動をしたいと思った。やはり、自分の周りにいる学生の英語力を上げて、人生を楽しくして欲しいということは変わらない思いである。そのため、残りの在学期間でフィリピン留学のプログラムを0から1人で再度作り直し、次の世代に後輩達にこの活動を引き継いでもらえるような仕組みを作りたいと思い活動を再開した。

4  最終学年での活動
41 復学前 最後の夏休み 第6回:2014夏留学プログラム



就職活動を終え、別府に戻ったのが、20145月でAPUの1クォーターの期末の時期であった。
当時、復学は10月までにまだ時間があったが、何をするかの答えは決まっていた。休学を不甲斐ない結果で終え一時は挫折を経験したが、やはり自分の大学生活はフィリピン留学企画抜きでは考えられない。そのため、もちろん終わりもフィリピン留学で学生生活を締めるしかないだろうと考え1年生からの友達である田中春利に声をかけ、協力を依頼し彼と自分で中心に最後の留学プログラムを企画した。最後の2014夏留学プログラムを作るにあたって、今までの経験から2つのことに注力をしようと考えた。1つ目は、参加者の“真の英語力向上”にフォーカスして交換留学に繋がるような留学を作ること。そして、2つ目は、自分が卒業した後にもこの活動がAPUで後輩の手によって続くように引き継げるシステムを作ることである。そのため、留学参加者から求められていて、成果が出る留学にするためには何が必要なのか?と考え、原点に立ち戻った。そのプロセスで気づいたのが、今まで自分が良いと考えていた現地でのアクティビィティ企画に注力するのではなく、やはり本格的に勉強の時間をとるためのサポートをすることが重要だという結論に至った。
そのため、今までと大きく変更したことは、“留学前事前学習”に力を入れて留学前にできる勉強をしっかりとこなしてから留学に挑む環境を作るということだった。具体的には、留学が始まる前の1クウォーター分の2か月間の平日毎日19時~22時までAPハウス1の自習室にて強制的に環境を作れる事前学習会を実施することである。きちんと参加すれば、ゆうに100時間以上の学習時間が可能である。APハウスの自習室は、静かに勉強できる最高の場所であるのだが、APハウス生にはあまり認知されてないようなので好都合であった。
事前勉強会の具体的なコンテンツは、「文法」と「単語」に絞った。理由としては、留学中に現地でスピーキング、リスニングの力は嫌でも向上するので、そのために時間のかかるいわば基礎練習といえる学習地道にやることが結果の向上に繋がると思ったからである。そういうわけで、集客をして参加メンバーが25人集まり、事前勉強会をスタートさせた。


実際の勉強内容として、単語を新たに1000語覚えて基礎力を底上げすることと、薄い文法問題集を2冊使って基礎文法を復習するということにした。田中がSRCAPUスーパー留学コース)出身であったこともあり、目標設定等の学習方法に対しても様々な改善のアドバイスをもらった。この取り組みのおかげで、事前学習会の出席率はさまざまではあったが、出席率が高い人はTOEFLの点数でいうと、平均30点上昇や合計で500点を超えた人数もちらほら出てきた。中には事前学習期間だけで100点以上もTOEFLの点数を上げた猛者もいたという今までにない結果を出すことができ、“事前学習”の必要性を改めて実感できた。
その際は自身も参加して参加者と一緒に2週間留学をしたが、おそらく最後のフィリピンになるということもあり、とても充実していた。2014夏の第6回留学では結果的に、5名の参加者が交換留学に内定し、TOEFLの点数も平均で30点以上は軒並み向上し、英語の成績向上の成果ベースでは1番の結果であった。この結果を見て、自分は本当に嬉しかったし、改めて、短期留学には“事前学習”の必要性があると確信した。帰国後、秋学期が始まったが、1年生4名がこの留学プログラムのスタッフとして志願してくれ、2015年春の留学プログラムに向け企画をスタートすることができた。
42 復学後 最終セメスター 2015秋 ~次世代に繋げるバトン~(4年秋)

 留学企画を無事終えて、自分にとっての学生生活最後のセメスターを迎えた。恥ずかしながらも、単位が意外にも残っていたので過去最多の科目を履修し、ゼミのプロジェクト、留学企画となにげに忙しくもとても充実した毎日を送ることができた。前出の通り2014夏に参加してくれた3人と新たに1名加えた4名の1年生スタッフによってこの第7回の留学企画2015春がスタートした。今回は、将来の引き継ぎのためにも自分は完全に裏方に回り、アドバイザーという立場になり、フィリピンにも行かないという形でスタートした。


1年生スタッフによる説明会】

スタッフ4人と共に留学のコンセプト決め、その後は資料作り、集客から事前勉強企画、留学同行までのほとんどを彼らが中心に行った。プログラム名も「STAY AHEAD」と新しくして、「徹底的な参加者目線」を彼らの実際の留学体験から反映させ、改善を加えて企画してくれている。当初はどうなることやらと思ったが、結果的に今現在20人以上がセブに渡航している。正味、自分自身はこの活動を大学2年生に始め、やっと理想の形を見つけることができた。しかし、今のスタッフ全員が1年生であり、おせじ抜きの当時の自分と比べて優秀であると感じる。今回のプログラムを機に完全に自分は引退し、後輩に意志を引き継いだのだが今後も自分の思いが受け継がれ、彼ら自身のオリジナルな展開が始まるのが非常に楽しみである。


STAY AHEADfacebook
この写真は、今現在セブ島に留学しているAPUと立命館大学の1年生の参加者達である。*2015年3月10日時
2か月の事前学習を乗り越え、現在セブに留学中だ。今回は、自分が卒業前に関われる最後の留学プログラムであったが、モチベーションの高い4人のスタッフのおかげで、無事の留学までこぎ着けることができた。事前学習の準備、参加者メンバーの意欲と共にかなり良い過去最高の状態であると感じる。彼らの留学中の過ごし方によっても結果は変わると思うが、この調子でいけば帰国後はびしっと結果を出してくれるだろう。帰国後、成果を出した今回の留学参加者が次回はスタッフという立場になり、留学プログラムを企画して次回参加者のお手伝いをする。そんな良いサイクルがAPUに続き、残りAPUに将来帰ってきた際にも活動が続いているようになればいいなぁと少し期待している。ともかく、4年間の経験による結論であるが、APU1回生は全員フィリピン留学を経験すべきだともすごく思う。英語力という切り口だけではあるが、そうすることによってAPU全体の発展を願っている。




5章 終わりに ~大学生活で学んだこと、心がけていたこと~
今回の大学生活を振り返り、ここまで文字に落とし込んだのは初めてだったが自分の振り返りをする上でも本当によい機会だったと思う。やはり、一番のポイントは“大学生活が誰と出会うかによって決まった”ということである。今回紹介して人以外にも、紹介しきれなかった多くの方の協力、支援、指導によって助けていただいたから今の自分があると思う。自分自身が常に心がけていることがあるのだが、それは“人との出会い”を貪欲に多く作ろうとすることある。自分自身で良かった点を振り返るならば、新しい人に会って話をしていくという姿勢を崩さなかったことかもしれない。昔、自分自身に悩んでいた際にある人からアドバイスを受けたことがあるのだが、人が変わるには3つの方法があると言う。主には、①付き合う人を変える ②住む場所を変える ③時間の使い方を変えるということらしい。つまり、新しいアクションを起こすことによって自分自身の環境を変えようとすることである。人は本当に“誰と出会うかで決まる”と信じている。必ずしもすべての出会いが良いかはわからないが、出会いを作り続けることを心がければ人生が少しばかりは楽しくなるはずだ。
また、卒業を機に、4年間のフィリピン留学に携わる活動を自分の中で区切りを付けることができた。そして、次の代に活動を引き継ぐ仕組みもなんとか作れたと思う。この活動を4年間も続けられたのは、ある意味高校時代の英語が苦手だった自分がいたからだと思う。正直英語に対する苦手意識は大分改善されたものの、依然として苦手意識はある。そのため、この活動は自身を英語に目を向けさせることで1種の自分の中の英語コンプレックスのようなものを払しょくしたかったという気持ちからだと思う。実際に関わった人が英語の成績を上げて、留学の切符を掴んだというのも嬉しかったし、感謝の言葉をもらった経験というものが、純粋に嬉しかった。自分は平凡な学生ではあるが、英語が苦手だったとしても、好きになることが出来たおかげで今の自分があると思う。確かに英語ができなくて悩む人の気持ちはとてもわかるし、そのような昔の自分みたいな人を救いたいとも思う。自分は本気でフィリピン留学に参加するということが1つの特効薬となるに違いないと肌で感じてきた。もし、昔の自分のような英語で悩んでいる人がいれば是非騙されたと思ってフィリピン留学に行ってはどうだろうか?(※事前学習は必須である)
大学5年間を今振り返るとあっと言うまであり、数えきれないくらいの多くの方々にお世話になり、支えていただいた。自分が未熟で至らない部分が多かったために大いに迷惑をかけてもしまったこともあった。とにかく、まずは関わってくれた皆様には感謝の気持ちを伝えたい。そして、卒業後は、エン・ジャパン株式会社という人材領域で事業をする会社にて新たなステージを迎える。大学生活で感じることのできた何にも代え難いワクワクする気持ち、留学企画が感謝された時の喜びを忘れずに、社会に対して少しずつでも価値を提供できるような人間になりたいと思う。そして、今後フィリピン留学のように何か打ち込めるものを見つけ、未来に出会う仲間と共に人生をかけて一事を成したい。最後になるが、長文で文章力も拙い文章を最後まで読んでいただいた方に感謝の気持ちを送りたい。ありがとうございました。 
         
 2015310日 石下卓憲

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