2015年3月21日土曜日

立ち止まる自由


◯はじめに
大学生とはどういうものか。あるいは大学生活とはどうあるものか。これがAPUでの(あるいは高校生の頃からの)テーマだった。いきなり余談だが、東北大震災で被災した立教新座高校の校長先生がその年の卒業生へ宛てたメッセージでこのテーマに触れられている。とても説得的で綺麗な文章なので、是非目を通して見てほしいと思う。(URLhttp://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/)
話を戻そう。ここでは冒頭のテーマについてAPUでの生活の中で僕が自分なりに考えたことを書き残しておきたいと思う。また後半は僕の大学生活についても触れる。(参考になるかわからないので、興味がなければ正直読み飛ばして頂いても構わない。)
この文章が、まだAPUでの生活が続く在校生(あるいはこれからAPUでの生活が始まるみなさん)の最高の学生生活を送る上での一助になればと思う。


◯「勉強」から「学問をする」へ
上記の二つはいずれも「学び」という言葉の類似語である。では違いは何か。僕なりの答えは、「受動性」と「能動性」という性質の違いにあるように思う。高校までの画一化されたカリキュラムは(シュタイナー学校など例外を除いて)圧倒的に前者ではないだろうか。受動的な勉強はつまらない。僕も休学前まではそうだった。ただここに知的好奇心が付与される、つまり能動的になると世界は変わる。信じてほしい、本当に変わるのだ。
この先どの知識がどこで生きるかは誰にもわからない。ただ一見ばらばらに見える知識はどこかで有機的に繋がっていて、そうした「深い」知識を背景に持つ人の言動にはどんな話でも深みと説得力が生まれる。APU生の強みはコミュニケーション力やディスカッション力という言葉をよく耳にする。しかし残念ながら多くは教科書の冒頭数ページに書かれているような表面的な知識をペラペラと話しているだけのような気がしてならない。就活の面接はそれで通るかもしれないが、社会に出た後、圧倒的な経験値の差がある先達たちには通用しない。だから、どんな知識でも、意味を問わず、自分のフィルターで選別することなく、貪欲に吸収してほしい。APUは専門性がないという話もよく耳にする。間違いではない。だがそれも自分次第でどうとでもなるはずである。

◯最高の味方
自分にとって最高の味方は誰だろう。両親、兄弟、親友、恋人…。僕の見解を述べさせてもらう。それは間違いなく自分自身ではないだろうか。もう少し言えば自分自身であるべきだとすら思う。誤解しないでいただきたいが、現代は競争社会だから誰も信じるな、とかそういう寂しいことを言っているのではない。これは自己肯定の話である。人は困難にぶつかったり、不安になると、「どうせ自分なんて」と自分を卑下してしまう。ただ本当の困難に立ち向かい、それを打破できるのは、周りのサポートの有無に関わらず、結局は自分を肯定できる人間なのではないかと思う。だからどんな時にも絶対に自分を過小評価しないでほしい。自分に自信を持っている人はどんな困難にも立ち向かえるし、そういう人間に人はついてくる。逆に「自分なんて…」と言っている人間には絶対についてこない。もしも自分のコンプレックスが払拭できない人がいたら、迷ったらまずやってみる、選択で迷ったらより困難な方を選ぶ、チームワークでは誰よりも厳しいポジションを選ぶことを意識してはどうだろうか。人一倍流した汗は必ず誇りと自信に変わるはずである。

◯後悔のない選択
在学中に就活支援の真似事をさせて頂いていたので、就活の話を例に挙げながら書いていく(まだ就活が身近ではない人は大学選びをイメージしながら読んでほしい)。就活支援の際に、どのような軸で企業を選ぶか、という相談を受けた。企業の規模、事業内容、知名度やブランド、あるいは自分のやりたいこと、興味のある業種…。選択肢は尽きない。先の学問の話にもつながるが、本当のところは、「将来のことは誰にもわからない」のだ。大企業だって経営破綻する時代だし、自分の興味だって変わる。企業の知名度やブランドで選ぶなんて論外だ。大企業内定を自慢できるのは卒業までの数ヶ月である。社会に出た後は自分にいかに付加価値を付けられるか、いかに自分を売り込めるかというシンプルな個人戦である。その時になっても企業の看板を盾にしている人に誰も興味を持たない。大学選びも同じである。東大もAPUも本質的には大差はない。その中でどれだけ歯を食いしばって頑張ったか。そこで人の価値(魅力)は決まると信じている。
ではどうすればいいか。僕は自分の選択に後悔がないか、納得感があるか、だと思う。自分が納得感を持って選んだ道なら、そこに言い訳を挟む余地はない。なによりもその納得感はその先頑張るエネルギーになるし、逆に後悔は足を引っ張る。すでに社会に出た先輩たちの中でも、活躍しているのは選択した企業の種類などではなく、自分の選択に「自負」を持っている人たちのように思う。
だから大学ではチャンスを掴みに行ってほしい。保守的に自分の得意分野にとどまらず、未知の分野にも果敢にチャレンジしてほしい。そして普段から意識して、「これならば自分の一生をかけてもいい」と誇れる何かを探し続けてほしい。就活中に他大学の学生と話して気づいたが、APUに転がっているチャンスの数は他の大学より圧倒的に多い。しかも多くは学内外問わず多様にベクトルが向いている。井の中の蛙にならず、広い分野でたくさんのチャンスをつかんでほしいと思う。
これは大学での4年間は、自分の時間を他の誰でもない自分のためだけに使える、かけがえのない時間だったと卒業する今になって感じるからである。



ここからは、僕の学生生活を少しだけ。冒頭にも書いたように、参考になる保障はないので読み飛ばして頂いても構わない。

◯プロローグ
卒業を目前に控えて、僕が「大学生」として過ごした時間の長さに改めて驚かされる。6年。4年のキャンパスライフと2年の休学。様々な人に支えられ、この6年は文字通り「矢のように」過ぎ去った。
高校3年生の秋。僕は卒業後の就職を密かに考えていた。その頃の僕は二次関数のグラフの書き方とか、大昔の古墳の名前とか、そういったものを覚えることに嫌気がさし、なぜ勉強なんかしなければいけないのかと先生に突っかかり、だんだん学校にも行かなくなり、だからクラスでもどこか浮いていて友達もほとんどいなかった。家に帰れば親ともケンカばかりでどこにも居場所がなく、だから「早く経済的に自立して誰もいないどこか遠いところに行こう。」いつもそんなことを考えていた。しかし、その年は大不況(リーマンショック)の年。就職を断念したのは年が変わった1月。そこから、まだ受験でき、地元から遠くはなれた場所にあり、そして何よりも高校と同じ机に向かうだけの「勉強」以外の「学び」がありそうな大学…。APUを選んだのはそんな直感にも似たものだった。
後期試験を経た2009313日。僕のAPU入学は滑り込みで決まった。


◯最下位からのスタート
APUでの目標は「卒業したあとも名前が残るような、誰もしたことのないような経験をたくさんもった人間になること」に決めた。「僕の考える魅力的な人」がこれだった。
入学式の2週間前に入学が決まり、2日前に別府に引っ越した。APハウスの申し込み期限はとうの昔に終わっており、スタートアップ講座(スキルアップ講座?)なるものの存在は入学後半年に知った。同郷の知り合いなどなど当然いない。つまり、絶望的に友達がいなかった。というかできなかった。高校でも友達がほとんどいなかったのに(しかもずっと男子校だったので女の子がものすごいニガテ)、そう簡単に友達などできるはずがない。いきなり壁にぶち当たった。半年ほど授業と家の往復生活を送り、これでは何も変わらないと気づき、当時最大規模の部員数を誇ったボランティア系のサークルの門を叩いた。新入生のほとんどが退部するという厳しさで有名でここで自分を鍛えようと思ったからだ。しかし、半年遅れの入部は同期との大きな差を意味し、ミーティングの議論が全く理解できない。従って発言なんてもっと出来ない。そもそも先輩にちゃんと敬語が使えない。などなど、散々だった。どう考えても最下位からのスタートだった。そういえば後年、とある先輩に「おまえが一番にやめると思ってた(笑)」的なことを言われた。実際辞めたかったが逃げるわけにはいかなかった。大学生活は僕にとって崩壊しかけた人生を立て直す最後のチャンスだったからである。

◯APUの罠
そんなこんなで、2回生になる頃には少しマシになり、部署のリーダーに指名される程度にはなっていた。またこの時期はさらに力をつけようとワークショップのTAや当時新設組織だった学生オリエンテーションスタッフ(FLAG)の初代メンバーなども務めた。ただいろんなことをやり過ぎた。まず不規則な生活と睡眠不足で体がボロボロになった(布団から起き上がれなくて学校に行けない日が続いたこともあった)。それから全部が中途半端でたくさんの人に迷惑をかけまくった。APUはチャンスが多いと先にも述べたが、あくまでも人間には皆平等に124時間しかなくて、体は一つしかないということが前提である。そして何よりも、例えば3つのことを80%での完成度でするよりも、1つのことを120%の完成度に持っていくほうが難しくはるかに価値があるのだ。当時の僕は結果よりも、忙しい自分、頑張っている自分に酔っていた。側から見ていると見苦しく、本当にかっこわるかったと思う。

◯休学
この頃は、サークルに関連する開発学の勉強にのめり込んでいた。しかし、それ以外の勉強は相変わらずする気にならず、GPA1.8くらいだったと記憶している。海外留学には興味があったが、海外まで行っても結局大学で勉強するのはしっくりこない。それよりももっと現場的な、実践的な学びを…。休学して海外NGOでの研修を選択したのはこんな考えからだった。研修先は大学のサークルが行っている活動(地域に根ざした教育支援)と同種の活動を展開していたガーナのNGOを選んだ。ガーナ人が代表を務め、設立2年目と若く、スタッフも僕を入れて56人という規模感だった。ものすごいスピード感で、初日に組織概要を聞かされてすぐにファンドレイジング(現地企業と交渉して資金獲得)、加入1週間で図書館建設プロジェクトのマネージャーとかになった。意味がわからない。日本のブラック企業とか目じゃない。家は壁が穴だらけで、気がつくと野生の鶏とかが僕らの大事な食料()を我が物顔でついばんでいる(しかも朝4時とかから鳴くから起こされる)。水道が通ってないからトイレもシャワーもない(体は雨水をためたバケツでたまに洗う)。雨が降ると停電する。食料は内陸で首都から距離があるため、野菜(トマト、タマネギ、イモ、白ナス、オクラのみ)とパンとメイドインチャイナのトマト缶でしかないからいろいろ頑張る。いろいろ頑張るけど、結局毎日同じものしか出来ない。調味料は塩コショウと油。なぜか油が味付けの選択肢に入っている。しかもめっちゃ入れる。だから村にはマツコデラックスみたいなおばさんがいっぱいいる。宗教は興味ないって言ったら協会のシスターに罵倒され、知らないおっさんに3回くらい娘(15歳くらい)と結婚しないかといわれ(丁重にお断りした)1回マラリアで死にかけた(あと3日遅かったら手遅れだったらしい)

ガーナはとても素敵なところだった。
ただNGO活動は将来の選択肢から外した。
きっかけはマラリアの時に大変お世話になった、在ガーナ歴40年の日本人会会長さんと話したことである。かれは現地に身一つで行き、ビジネスをいくつも立ち上げていた。「支援活動で自分や家族を養えるのか。自分すら困窮している21歳の若造に助けられる人間がいるのかい。まず自分の基盤を作って、成功して金持ちになって、そしたら『昔、実はNGOで活動してたんだよ』とか言いながら趣味でやればいい。」彼はそう言った。その通りだと思った。
休学から約半年、僕は日本に戻った。

◯新天地
休学してステップアップするつもりが白紙に戻ってしまった。なかなか珍しいケースだと思う。支援活動を基準にした将来設計は崩れたが、あの地で培ったバイタリティーは無駄にはならないはず。むしろ自分の強みとして獲得できた力なのではないか。そこでどこかの番組企画のように、わずかな所持金で渡航して現地で生活費を稼いで生き延びられるか、を試そうと思った。海外でお金を稼ぐのはビザの関係で意外と難しいことなのだが、世の中にはワーホリという素晴らしいプログラムがある。渡航先はカナダに決めた。仕事を探すなら都会。カナダの最大都市トロントに拠点を置いたものの、なかなか仕事が見つからない。さすがに大都市。所持金だけはガンガン減っていく。このままだとカナダでホームレス。就活のネタにはなる。そう思った矢先、メールが届いた。事前に求人コミュニティーサイトに掲載しておいた履歴書に興味を持ってもらえたのだ。場所はアラスカのまっ隣。北緯61度、気温は常にマイナスに達する極北の田舎町・ホワイトホースでのガイドの職だった。迷っている時間はない。こうして現地最年少ガイドが誕生した。現地到着後、すぐに現地の自動車二種運転免許をとった。契約はドライバーガイド兼通訳で1024人乗りのバスを乗り回す仕事だった。最大で零下40-50度に達する環境で昼は犬ぞりや動物保護区、夜はオーロラ観測のガイドとして働いた。働きまくった。2月は勤務時間が358時間だった。ブラック企業を通り越して漆黒企業だった。おかげで生活費どころか、ここでは言えないくらいの貯金を作ってカナダの生活は幕を閉じた。

◯復学・就活
正直、大学もすべて止めてホワイトホースで暮らしたかった。帰国に至ったのは、「いつか日本に帰れるように基盤だけは作りなさい」と日本人のガイドの大先輩に諭されたからだったが、あそこ以上に魅力的な職場がなければ、卒業後にまた戻ろうと真剣に考えていた。僕の就活はこの軸で始まり、この軸で終わったように思う。正直、成し遂げたい事業があったわけでもないし、興味がある業界もなかった。だから、「ここで働きたい!!」と強烈に思えるような出会いを求めて企業接点を持ちまくった。方法は簡単で、説明会やイベントに出る→(いい意味で)目立つ→人事の方から連絡先をもらう→連絡を取り続ける→社員さんや偉い人との面談をセッティングしてもらう。といった感じだ。最終的に10社くらいの面接を受けて、5社から内定をもらった。その中で一番人的な魅力をかんじたのが今の内定先である。

○おわりに
卒業を間近にして、初めて自分のAPUでの6年間を書き起こした。進むにつれて筆が進むようになったのは、書くことに「慣れた」からではなく、楽しい思い出が増えていったからだ(心なしか文体も楽しいものに変わっている気がする)
APUでは本当にたくさんのことを経験させていただいた。そしてなによりも、仲間に恵まれた。彼らがいなければ今の僕はない。この場を借りてお礼を言わせてほしい。本当にありがとう。
これからは、これまで僕が与えられたものを、次の世代に還元していきたいと思う。

2015313日の金曜日。僕はAPUを卒業する。
その日付は奇しくも、僕のAPU入学が決まった6年前のあの日と同じである。


長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。



◯謝辞
自分のことを外に開示するのが僕は苦手である。というかものすごく恥ずかしい。この文集も〆切を2週間以上オーバーしての提出になってしまった。そんな筆の遅い僕にもこのような素晴らしいチャンスを与えてくれて、かつ書き上がりを根気強く待ってくれた深川君に特別な感謝を。


2015.3.19 
的馬佑弥

(極北旅行から帰還直後。日本の暖かさを噛みしめながら。)

2015年3月18日水曜日

APU生が世界をオモシロくするためには

はじめに
 けんぞーさんにこの話をいただいた時、「こんなに何もない自分が何か書けるんだろうか」と思った。「THE APU生」になるべくして挫折し、どんどん成長していく先輩や同級生、後輩たちを後ろでうずくまって見て、自信を失っていたこの自分が、何か書けるんだろうか、何を伝えられるんだろうかと思った。むしろこうして書き始めた今でも思っている。でも、こんな奴もAPUにはいるし、もしかしたら、こんな奴ばっかりかもしれない。ただ、これだけは言っておきたい。この文集を読んでもあなたは何も変わらないし、何も得られない。単に、これから読む一人の人生があなたと少し違って、少し同じなだけで、それ以上でもそれ以下でもないし、誰かの何かが変わるだろうかと期待もしていない。だけど、少しの勇気を与えられたら、とちょっぴり思いながら綴る。


   3人の父、1人の母
試合開始早々はジャブで距離を取るものだけど、全力の右ストレートで。
自分の物語を語る前に言っておきたいこと、それは、僕には3人の父がいること。決して多夫一妻制の女尊男卑家庭に育ったわけではない。まあ、離婚数が高くなってきたこのご時世よくあることで、母がバツ2で、今は事実婚。しかし、いくら自由恋愛の世の中とは言え、最初の父は京大卒で準国家公務員のエリート、2人目の父は15歳下のイケメンニート、そして3人目の父は16歳から約25年間ヤクザだった中学時代の同級生をパートナーに選ぶのは僕の母くらいだろう。これが、自分にとっての原体験になる。

   環境の変化の中で
大阪府堺市で生まれ、3ヶ月後に山口県下関市、2歳から埼玉県越谷市、4歳から静岡県沼津市、小学校1年生から3年生まで埼玉県草加市、4年生から5年生まで埼玉県吉川市、6年生から高校2年生までは神奈川県川崎市、高校2年生途中から東京都江東区、大学は大分県で、休学してカナダのトロント(トロントの中で2回引越し)。10ヶ所の地を巡り、父親も2回代わり、取り繕ってどうにか生きるしかなかった。嫌われないよう、なんとか好かれるよう、人の言うことに「イエス」というしか生きる方法がなかった。幼少の頃から、自分の中で「絶対」が存在しなかった。どんなに仲良くなった友達も、いずれは離れてしまうし、父親だって変わっていく。そして、ついに高校生の時に、自分の人生に絶望してしまった。学校もあまり行かなくなった。「自分の人生はなんて儚く、なんてつまらないんだ。当たり前なんてくそくらえ。」良い大学に入る、良い会社に入る、良い給料をもらう、家族と幸せに過ごす、子供ができる、孫ができる、ひ孫ができて、家族に見守られながら死んでいく。そんな人生、絶対嫌だ。なんて面白くないんだ。そうして、当たり前や世の中の常識をとことん嫌った。塾や英会話教室がある時間に、家の近くの公園でいろんなことに考えを巡らせ、たそがれることだけが唯一、人生の自由を感じる時だった。


(左:母、真ん中:僕、右:こーちゃん(3人目の父)
   APUとの出会い
受験を1年後に控えた頃、親(2人目の父と)が離婚した。そのため、引越しをすることになった。高校と家は1時間45分かかる距離にあって、その真ん中らへんに位置する渋谷か表参道にある塾に行こうと決めた。その塾は、「早稲田塾」という首都圏展開の割と大手の塾で、AO推薦に強くて、面白そうなことをやっているみたいだった。志望校を聞かれた時、当たり前が嫌いなくせに、社会的に良いとされる早稲田大学政治経済学部に入りたいと言った。新聞記者になりたかったからだ。しかし、早稲田塾のAO対策講座を受けるにつれ、自分の原体験について、思っていること、考えていることがどんどん掘り起こされていった。結局、社会に反抗していたはずの自分は、本当のところ、もっと社会の役に立ちたい、何かの為に身を粉にしても良いと思っている超良い奴だった。(笑うところ)だんだんそういうことがわかってきた頃、その後の人生を大きく変える人に出会った。立命館アジア太平洋大学学長(当時)のモンテ・カセムさんが、早稲田塾に講演しにきた。それが、人生の分岐点になった。それまで人生に絶望していていて、家でもあまり家族と話そうとしなかった人間が、講演が終わった後、3億円が当たったかのようなテンションで親の元に帰ってきて、「俺、APUに行く!!!!」と叫ぶように言った。あんなにアホっぽい母親の顔を今後見ることはないだろう。口をポカーンと開け、「APUってなに?」そりゃそうだ。知るわけがない。「立命館アジア太平洋大学、略してAPU!大分にある大学で、グローバルな大学なんだって!」さっき習った言葉を意味もわからないまま使って、親がわかるわけがない。でも、母親は、ようやく息子が希望を持とうとしている、と気づいたのだろう。「なんやようわからんけど、行ってきたらええ。よかったなあ、行きたい大学が決まって!」その日の晩飯は、いつもよりちょっと豪華だった。

④1回生:サークルを立ち上げる
 大学に無事合格し、様々な事前プログラムに参加していた僕は友達いっぱい、そして彼女もできて、順風満帆!最高の大学生活が「待っている!」と、期待を胸に、意気揚々と大学に進んだ。「さあ、何をしよう、まずは学生団体でも作るか、そうだな、名前は“Made In APU”にしよう。APUの良さを、学生側から世界へ発信する。そんなウェブサイトを作ろう。高校時代、どれだけAPUの情報を知りたかったか。じゃあメンバーを集めよう。よし、20人集まった。さあ、、、どうしたらいいんだろう、、、」目的地は決まっていたのに、運転の仕方がわからなかった。どうやってエンジンをかけたらいいか、ハンドルの動かし方は、ブレーキのかけ方は。わからない、何もわからない。結局、”Made In APU”は幻のサークルとなった。周りから冷たい目で見られ、バカにされているように思えた。「あいつ口だけじゃん」「なんだ、やめちゃったんだ」そんな声が聞こえてくるような気がした。またまた、絶望の谷底に落とされた。自分はダメだ。何もできない。大人しくしていよう。その一方で、親友のきのぴは自分でサークル(Table For Two)を立ち上げ、有言実行、どんどん成功していた。彼と比べれば比べるほど、自分の凡人さ、いや凡人以下の能力が露わになっていった。「もう、逃げたい。」希望で満ちていたはずだったのに、また、現実から逃げてしまった。1回生の秋セメスターで取れた単位はたった2単位だった。
  
⑤2回生:茂木さんをAPUに呼ぶ
講演後、茂木さんと食事会にて
 春になるとなぜか元気になる天野。心機一転。過去の自分からおさらばだ!元気良く学校に通って、友達を作る、友達と一緒に授業を受ける、彼女と遊ぶ、ダブルダッチサークルに行って仲間たちと練習をする、当たり前を当たり前にこなすこと、それこそが自信を持つ方法なのだとようやく気づき始めた。大学生活が少しずつ前進していく中で、一冊の本に出会った。「世界一自由な脳の作り方」。脳科学者の茂木健一郎さんの著書だ。その中の一文に「APUには期待している」という一文を見つけた。動かずにはいられなかった。もしかしたら茂木さんを呼んだらAPUの何かが変わるかもしれない。Twitterで茂木さんに「APU来てください!」と勢いで言った。「呼んでくれればいつでも行くよ!」快諾だった。そこから、Twitterで有志を募り、9人が集まった。平野壮、樹下有斗、稲田杏那、井谷起苗、梶尾武志、長尾加奈惠、三浦沙耶、安達元哉、重光優作。友達だったり、後輩だったり、知らない人だったり。自分が言い出しっぺだったからリーダーを務めたけど、全然リーダーシップがなくてずっと悩んでいた。2、3ヶ月の企画を経て、20111128日、茂木さんがAPUにやってきて、「APU生が世界をオモシロくするためには」という題で講演をしていただいた。730人収容のミレニアムホールに、800人以上の観客。県外の人、学生ではない人、社会人、APUの卒業生、他大学の人、様々な人からの参加希望を断っての講演だった。この時、ようやくわかったことがある。自分は、凡人で、普通の人間だ。茂木さんみたいに知識がいっぱいあったり、社会のおかしいところにぶつかっていったりするような勇気を持ち合わせてもない。そして、周りのメンバーのように賢くもないし、決断に対する勇気がない。ただ、1回生の時と違うのは、結果を残せたということ、わからないながらもやり遂げることができたということ。それは自分にとって大きな財産だった。自分は何もできないポンコツだけど、周りが助けてくれる。「当たり前」から逃げてきたからこそ、「当たり前」のことに触れた時に、心が震えた。でも結局、そんなことに気づいたくせに、普通な自分だからこそ、何か人一倍努力をしなければと思って、難しい本を読もうとしたり、5ページ読んで諦めたり、これからの時代は英語と経済学だ!と経済学を英語で学ぼうとして挫折したり、あんまりやることは変わらなかった。学校に行って授業をしっかり受けて考えを深めればいいのに。また、やってしまった。2回生の秋セメスターは2単位しか取れなかった。2回生が終わって、34単位しか取れない絶望的な状況の中、このままではいけないと思い留学をすることに決めた。理想の自分は、その先にいるだろうか。しかし再び、「何かが変わるのでは」と期待している自分が顔を覗かせていた。

⑥休学:天野、初海外。
Café Treatsの職場の人たちと
 カナダのオンタリオ州トロント市。そこには新しい世界が広がっていた。色彩、建物、におい、右車線の道路、交通機関のシステム、街中から聞こえる音、人々が話す言語、食べる物、人と話すときの距離、価値観、考え方、ファッション、気候、お金の形や数え方。違いに気づいては発見の喜びを得て、どこか自分が変わったような気がした。でも錯覚だった。何も変わりやしない。環境が変わっただけだ。自分は何も変わらない。結局、世界のどこにいようが、その環境にいて満足する奴は、何も変わらない。留学に行って何か変わるだろうかと期待することは、愚の骨頂。「自分はこういうことがしたい」「自分はこうなりたい」という人と、「何か変わるかなあ」と鼻をほじって待っている奴では、その時点で勝負は決まっている。自分は後者で行ったから、交換留学で目標を持って行った人と比べたら月とすっぽん。結局自分から何かを変えないと何も変わりやしない。僕の尊敬するビートたけしが「人生に期待するな」と言っていたのを思い出した。結局、今までの自分は、APUに行ったら、カナダに行ったら何かが変わるかも、と期待して向こうから何かがやってくるのを待っていた。やっとわかった。期待が自分を苦しめていた。誰かが何かを変えてくれるんじゃないかと期待し、動こうとしない自分が自分を苦しめていた。それからというもの、自分で動くようにした。語学学校に3ヶ月行ってクラスも上から2番目までいって、自分で職を探して、レジュメを10店舗くらいに持っていって、住む場所を探して、自分で稼いだお金で生活した。カナダ人と一緒に働くこともできたし、英語もスラスラ出てくるようになった。映画も字幕なしで大体観れるようになったし、スタバで注文時に店員とスモールトークを出来るようにもなった。それからというもの、毎日できることを増やしていった。若い頃は、理想と現実のギャップを思い知るから、悩むのだろう。カナダで一番悩んだ時、父(The First One)に言われた。「理想を温めつつ、ちょっとずつ目の前のことを出来るようにしたらええ。」自分が何もできないのは結局、目の前のこと、当たり前のことから逃げていたからだ。この時からちょっとずつ、自信を取り戻していた。個性やUniquenessというのは、当たり前が出来るという前提の上に成り立っている。嫌だと思っていることにこそ、面白さや成長がある。早く日本に帰りたい、彼女に会いたい、帰る日まであと何日だろう、と残りの日にちを数えては消費していった日々から、あと50日しかない、何をしよう、ここで何が出来るだろう、と考えるようになってから、少しずつ変わっていった。人間、「まだこれだけ時間がある」と考えるより、「あとこれだけしかない」と生きる方が、後で振り返った時に幸せなのかもしれない。マイナス20度のつん裂くような寒さでも毎日5時半に家を出て、カナダ人しかいない職場でも、楽しく働いた。週末はみんなで飲みに行って、彼らについていこうとビールをピッチャー分飲んで道端で吐いたり、終電を逃してタクシーにぼったくられたり、散々だったけど、ひとつひとつが自分にしかない体験だった。人生で初めて自分だけの力で生きた1年だった。

ダブルダッチサークルの仲間たち
⑦3、4回生:単位、就活、サークル、卒論、家庭教師、塾の立ち上げ、彼女
 復学してからの自分は、人が変わったようだった。当たり前を一つずつこなしていく2年間だった。3年付き合った彼女と別れてしまって落ち込んだ時期もあったけど、意志を強く、前に進んでいった。この2年間は、あっという間だった。単位はなんとか取った。就活ではいろんな業界、業種で悩みながらも、自分は教育系に進むべきと考えて2社だけ受け、自分を変えてくれた場所である早稲田塾に行くことにした。サークルでは同期たちと最後のパフォーマンスを披露し、天空祭のオオトリを飾った。卒論はなんとかお笑いについて書き上げた(ダメダメだけど)。お医者さんの子供に英語の家庭教師をして、学年で5番まで押し上げた(長文が出来なかっただけだけれど)。ある塾がプロデュースで、大学生主体の中学生のための塾の立ち上げをして、なんとか1年間運営できた(これでめちゃくちゃ白髪が増えた)。そして、同じ方向を向いて、様々な壁を共に乗り越えていくことのできる彼女もできた。もちろん、いいことばかりではなかったけど、なんとかやってのけた。いろいろとやりすぎて、逆に逃げたくなることばかりだったけど。でも、この2年で、頭の中にあるイメージをどうやって形にすることができるか、ずっと悩んでいたことが、できるようになった気がする。その一方で、自分の悩みからくる創造性が少し失われた気がする。それに関しては、今後の課題だ。
  

さいごに
 「何かを得るためには、何かを失わなければならない。」誰かが言っていた。その通りだと思う。最後に、これを踏まえて一つ言いたい。別になんてことはないことだけど。最近、エネルギー理論というのを発見しまして。(笑)僕を含め、今ここまで読んでくれているあなた、世界中の人々は、1日で使えるエネルギーがある。もちろん人によってエネルギー量は違う。もし僕が100だったらあなたは10かもしれないし、1000かもしれない。でもそのエネルギーを1日でどう使うかが、自分を形成する。1回生の頃、1日で100使える内、50は彼女、45は自分で考えること、5は授業とか課題だった。(その分成績は低かった。)でもその100のエネルギーを持つ自分が、海外に行って英語だけ勉強する環境に身を置けば、そりゃあ英語ができるようになる。ほぼ100のエネルギーを英語に対して使っていたから。もしあなたが今の自分に満足していなかったら、今そうやってスマホやYoutubeに使っているエネルギーを、授業とか難解な本とかに向けよう。まずは3とか4でいい。(ちなみに頭のいい人は省エネだから、30くらいでいろいろやってのけてしまうので、ずるい。羨ましい。)でもこの時に必要なのは、自分を忘れること。禁煙したいと思う人が禁煙できないのは、「禁煙」を意識するからだ。スマホやYoutubeから抜け出せない人は、やめることを意識するからだ。そうじゃない。何かを始めろ。朝早く起きろ。好きな人に告白して玉砕しろ。国際学生に話しかけて「Huh?」とか言われて落ち込め。海外に行って、全然英語上達しないまま帰ってこい。英語ができないなら、できるようになれ。読めもしない新聞を読んで社会をなんとなく掴め。当たり前のことを当たり前にこなせ。人を愛して傷つけ。誰かを傷つけて落ち込め。後のことばっかり考えず、今この瞬間に集中して生きろ。「何かを得るためには、何かを失わなきゃいけない。」自分は思ったより、弱くて、何もできなくて、小さい存在で、つまらない人間だということを認識しろ。そうでないとなりたい自分になれない。それがわかったら、少しずつ、毎日できることを増やしていったらいい。それだけで人間十分だと思う。他人に期待せず、ありありとした自分に向き合うだけで。ただ、わかっていくことが増えていくにつれて人はうまく生きれるようになる。それまで100で生きてた人が30で生きれるようになる。でもそれこそ、つまらない。その次は、世界をオモシロくしてやろう。常にエネルギー100100010000APU生が、エネルギー30で生きている人たちの世界をオモシロくしていこう。当たり前をまずやってのけて、世界をどんどんオモシロくしていこう。世界が変わるのを待っているのは、つまらないから。
左:後輩のゆーすけ、真ん中左:轟先生、真ん中右:僕、右:親友のきのぴ



2015.03.17天野智

2015年3月15日日曜日

love the life you live.


わたしの記憶はどうやら人より長く保たないらしい。つらつらと思い出を書き連ねようとしてみたものの、困ったことに記憶はどれもひどく朧げで、とても筆が進みそうにない。 けれど、この先ふと足を止めて自分の人生を振り返る度に、きっと私はこの文集を読み返すような気がしているので、卒業を前にした今この瞬間に感じていること、ぽつぽつと思い出されることなんかを文章にしてみようと思う。 
 今日は2015311日、震災から早4年の月日が流れた。 
 ちょうど4年前の今日、私は大学入試の後期日程の真っ只中にいた。いわゆる偏差値競争に敗れ、屈辱感にまみれ、凝り固まったプライドと、持て余すほどの自尊心を捨てることもできずに、地元から遠く離れたこの大学に行くことを選んだ。
CSRの可能性を探りたい」「きちんと利益を出せるフェアトレードビジネスを学びたい」「留学に一番近い国内の環境に身を置きたい」なんてもっともらしい理由で武装していたけれど、きっとただ単純に、世の中できらりと光る何者かになりたかった。社会の出来レースに敗れた今、出来るだけそこから外れた場所で。 
 あのとき期待した姿に近付けたのかと問われれば、その答えはNOだ。当たり前の如く突然スーパーマンに変身できるはずもなく、4年前の延長線上に、今の私がいる。ついこの間入学したばかり、とまでは流石に思わないけれど、時間は加速度的に、私を今いる場所から押し出しそうとしているみたいだ。
 さて、4年間の話をしよう。
 家庭の事情もあり、親からの援助を受けずに大学に行く決断をしていた私は、他人の目からすれば「バイトに明け暮れた4年間」を過ごしたことになる。
それがいいとか悪いとか言いたいのではなくて、私にはそれ以外の選択肢は無かったのだから、誇るつもりも、謙るつもりもない。しかし、お金と時間を自由にやりくりする大きな裁量権を得た私は、常に自転車操業ではあったけれど、温泉と、大好きだった洋服を売るアルバイトと、震災復興支援の活動に、時間の多くを費やしながら、基本的にやりたいことをして生きてきた。
 九州では見えない、世の中が大きくざわめくような自然災害をこの目で見たい、自分にできることを探したいと、東北には何度足を運んだかわからないし、雇用を生み出せないかと石巻に住み込んでレストランを開業する長期インターンもした。
復興も中盤になり、長期的なコミットや、精神的なケアが必要とされていると知ってからは、大分に子供達を呼んで子供キャンプを開いてみたりと、自分にできる、本当に必要とされている支援の形を模索した。
 洋服を売るアルバイトでは、学校と同じくらいかそれ以上の頻度で職場に足繁く通う中で、洋服、延いてはものづくり、ブランドマーケティング、サービスマネジメント、素材や縫製へと関心が広がり、遂には縁あって就職先も生地のメーカーに決まった。チームの中で働き、大きな物事を動かしていくことの面白さや、人の役に立つ喜びもここで学んだ。
 他にも、本を読み漁ったり、トルコや東南アジア、日本の最果てへとバックパックを背負って出かけてみたり、温泉と美味しいものを探して友人と大分を歩き回ったり、朝が来るまで友人や先輩と話し込んだり、現代アートの製作のお手伝いをしてみたりと、まあ好きなように生きてきた。
書き出していて自分でも思うのだが、はっきり言って脈絡が無い。元々気持ちに突き動かされて生きるタイプなのだが、好きだ、気になる、見たい、知りたい、会いたい、といった気持ちにとにかく従順に生きてきたように思う。未知に遭遇したとき、自分の心は何を思い、感じるのか、化学反応を見るような気分で色んな世界に手を伸ばした。
APUの環境も、そういった意味ではとても恵まれていて、国の違い、文化の違い、宗教の違い、価値観の違いが当然のようにひしめき合っていて、こちらから手を伸ばすまでもなくそれらに向き合わされた。かつてのわたしの、自分を守るためだけの薄っぺらな価値観なんてあっという間に潰されて、そこからはただ目を見開いて、眼前に広がる世界に対して寛容になるしかなかった。拒絶するのではなく、一つ一つ拾い上げては考える日々。そのうち、自分は何に感動し、怒り、悲しみ、笑うのか、際限なく掘り下げたいと思うのかわかってきて、自分の輪郭のようなものがぼんやりと見えてきた。心から大切にしたいと思える人々にも恵まれた。弱い部分も醜い部分も多いけれど、昔より今の自分の方がずっと好きだと胸を張って言える。それがこの大学に来たいちばんの収穫かなと思っている。 

 今だから言えるのだけれど、外の世界と関わる中でしか、自分は見えてこない。そして今この瞬間も、これからも、確固たる自分なんかなくて、常に世界と化学反応を起こしながら変容していく。反応が止まったとすれば、それは完成じゃなくて錆び付いただけだ。だからどんなに歳を重ねたって、目を開いて、一人風に向かって立ちたい。今見えている世界の美しさは、自分自身の心の美しさでもあるのだとどこかの本で読んだのだけれど、そう信じている。 
 どうか、優しく、柔らかく、強かに、しなやかで在り続ける努力を忘れないでほしい。 
 ここまで長々と、主に未来の自分に向けて書いてきた。青臭いでしょう?笑ってください。

 そしてそんな文章を最後まで読んでくれたあなたに、ただありがとうと言いたい。何かを感じてくれたのなら、それは私にとって、とても、とてもうれしいことだ。 2015311 APM 三浦沙耶




Life at APU

In a few days my APU journey will come to an end. Yet despite it, the wonderful memories of this amazing journey will linger on for years to come. Thus through this short passage, I would like to share with you, dear reader, of how I shaped my world whilst at APU.

Before deciding to come to APU, my knowledge of Japan was limited to those universally known facts of sushi, pockemon, ninajas and kimonos. I, like many, made my decision based on the very much needed tuition reduction scholarship that APU had graciously offered me. So, not knowing the difference between ありがとうございます and おはいようございます I arrived at APU.

My first semester was pretty uneventful, and all I did was just go to my classes and do my best to get my basic Japanese in order (the only thing I managed to get into was TSS- more on this later). Looking back now, I do kind of regret not getting myself involved with various extracurricular activities earlier on. But going with the well know statement of "better late than never" I managed to be selected to become a member of FLAG (freshmen orientation group), which I ended up joining on a further three occasions. This indeed was an amazing experience, and made me realise that I have got the amazing opportunity of interacting with people of different nationalities, ethnicities and different perspectives. Furthermore the first few 'real' friends that I got was through FLAG. This brings me to my first tip, that is unless you go out and do some activity you will not make any friends. So in order to make lasting relationships you must join some kind of activity.

But the availability of so many activities and opportunities can be overwhelming and confuse you on what you should do. The second tip and the solution to that is to not be afraid to experiment with different activities, because eventually you will find what you like. In my case, I tried to continue my high school activities of playing badminton and being a part of the MUN (model united nations) club and the APU orchestra, all of which didn't give me the satisfaction I once had held for these activities. So, in my second semester I was put in charge of choreographing and heading a dance for Sri Lankan Week 2011. When I got involved with this I realised my new passion - dancing. So, I ended up dancing for Sri Lankan Week and Indonesian Week until my last semester, whilst also being a member of the Salsa club. (But I do sometimes feel that I missed a chance by not having danced in other multicultural weeks).

In other activities, I have been a part of the Technical Support Staff (which technically supports various performances such as multicultural weeks and the Entrance Ceremony). Through this I was also able to re-start my high school passion of organising events. As I progressed on to my my second year, I had the opportunity and the responsibility of becoming sub leader and thereafter leader of Sri Lankan Week in 2012 and 2013 respectively. Via this, I was able to develop my organisational and leadership skills. Also I was a TA for both 1st year workshop classes and English classes. In addition I was able to join KUMON English Immersion camp, which greatly helped me mature and thought me how to interact and educate children. Through these activities I  realised that I found joy in teaching, and would like to become an educator in my field in the future. 

Now you may wonder as to why I seem to have left out the academic side of my life. Well the reason behind is that, I personally believe that I got to learn more from the extracurricular activities. But as we are speaking of academics, I could say that my biggest academic achievements were writing my thesis on mixed ethnic identity development as well as managing to gain a substantial level of Japanese, Indonesian and Spanish language ability. Which brings to my third piece of advice, this university has given us the opportunity to shape our academic studies in anyway we like. Therefore, feel free to pick and choose subjects according to your interests, and do nothing t be afraid to challenge on a new language. 

Well, enough said about what I did at APU, rather I wish to move onto the bigger picture.

All in all this university has been an amazing experience, and no matter what anyone would say on any of the negative things about APU, I would not want to change this experience for the world. I will cherish for years to come the unforgettable memories with wonderful people that I have made over the last 4 years. I have been able to expand my perspectives and accept and in some cases live in the various cultures that exist in this amazing place. Thus, it is with a heavy hear that I am leaving this place atop the mountain, but the connections made with people from across the globe will remain- indeed this is not a 'good bye' but rather an 'until we meet again somewhere in this small world'. In conclusion, my お願い to you, current and future students is not not loose the opportunities provided through the dynamic environment of APU, and make as many lasting connections as you can because you will never know where life will take you, as you, like hundreds of other APU-ers, go out into society and 'shape your world'.

「みんなと違う」を恐れずに

●みんなと違うこと
 初めの夢は「ミュージカルをやりたい」だった。時は遡り中学入学の時。この学校は中高一貫でエスカレーター式であることを初めに挙げておく。当時演劇というものは周りから奇怪な目で見られていた。私の所属した演劇部も全く同じ目で見られ、やれヲタクの集まりだとか気持ちの悪い集団だとかで常に周りの部活とは距離を置かれていた。「人とは違う」ことはタブーだったのだ。しかし、夏季休暇に思いもよらぬ出会いがあった。USJ。誰もが知る一大テーマパークのある一角に「ユニバーサルモンスターズ ロックンロールショー」というものがあるのだが、これが私を魅了した。音楽や煌びやかな照明に加え、様々な特殊効果の演出が私の心を掻き立てた。キャストも軽快なリズムとトークで周りを一瞬のうちに自身のペースに巻き込んでいる。「これだ。」 休暇を終え、中学高校と舞台表現の道にひた走った。残念ながら、希望のミュージカルは舞台設備上、または役者の不足という事態もあり不可能となってしまったが、約6年間、演劇は続けることはできた。周りが何と言おうと私は自分の好きなことに夢中になって楽しむことができたと思う。今思えば中々幸せな環境だったかもしれない。みんなと違う事をやるというのは決して駄目なことではないのだ。
 そんな中、高校生活ももう終わるころ、英語の教師より大学推薦の話が持ち上がった。「立命館アジア太平洋大学」通称APU。グローバルな環境を生かし、常に日々学生が世界を楽しんでいるというハイスペックなユニバーシティと聞く。さほど私が英語に秀でているわけでもないのに、だ。聞けば実に若い大学で、私に合った非常に面白いものなのだという。一方で勉学にも力を入れているとのことであった。私は期待半分、不安、不満半分の中、APUという未開の土地へ足を踏み入れることにした。なんとも冴えない話ではあるが、これが私とAPUとの出会いだったのである。この出会いが後に私にとって大切な意味をもたらす事を私はまだ知る由もなかったわけだが。

APUという異空間
 高校を涙ながらに卒業し、APハウスという学生寮に住むことになった。隣は中国人。もはや逃げも隠れもできない。なんせ向こうとこちらを隔てるのはわずか5cm程度の厚みの扉のみなのである。さすがは音に聞くAPU。外国人と強制シェアとは恐れ入る。その後彼とは喧嘩もし、笑いもした。(喧嘩7割)自分の意思が伝わりにくい環境は苦痛を伴うものがある。だが、これを読む方々、くれぐれも怖がらずにレッツ コミュニケイト をしてほしい。私がうまくないのだ、コミュニケーション。APUという土地は私たちの常識を180度覆す。そういった意味ではいろんな世界が学べるのだろう。「世界を見に行こう」なんてフレーズもあながち間違ってはいない。今の私であればそれ相応に国際生と楽しめるので、「世界は~」だの「国は~」だので「なるほどね」と理解しようとも思える。だが、当時の私にとってみれば、アウェーであり、楽しさを見出そうとするも言語の壁にぶつかるばかりで前が見えずにいた。日本なのにアウェーという異空間は、私をまず萎縮させた。
 
●劇団「絆」との出会い
 縮こまってても時間の浪費が起きるだけで、自分にはプラスにはならないし、まったく日本人がいないわけではないのだ。アウェーから逃げるように日本人の友人を誘って、気晴らし程度にサークルの案内を頼りにそれぞれのサークルの活動を見て回った。サークルの紹介は私には新鮮だった。実際に国まで行ってボランティアをするサークル、異国の伝統行事を披露するサークル、会議ばかりするサークル。どれもこれもAPUならではかもしれない。それくらい多種多様で様々な色を見せてもらった。そんな中、一つのサークルに目が行った。劇団「絆」。聞けばミュージカル公演を前提に活動するとのことで、サークル選びに時間はかからなかった。サークルの中には個性的で、中学や高校時代、嫌悪されていたいわゆる「みんなとは違う」人達が大勢いたわけで、自分の居場所ができた、そんな気持ちを強く抱いた。おまけにずっとやりたかったものがやれるのだ。こんなに幸せなことはないだろう。プロではないがプロ意識を持って行う舞台活動には私も熱が入ったままで、舞台はこんなに楽しいものなのかと、中高生の時代には無かった感覚が呼び起された。演じているうちに大勢の仲間たちから支持を受け、一躍大役をこなすまでに成長していた自分がそこにはあった。
 数多の先輩や同期からご縁を受けたこの5回目公演だったが、イベントサークルというものは本番が終わると一度「解散」が行われる。劇団「絆」も例外ではなかった。涙ながらの解散が終わると、次に受け継いでいくための儀式を行う。その中で先代代表が真っ先に次代の代表にと声をかけてきた。私は返答には23日を要した。というのも100名ほどの団員を背負ってサークル活動に勤しむわけであり、ついては多大なる負荷と責任を負う。すべて手探りな中で、どう設立していけば良いのか、自分には皆目見当もつかなかったためだ。しかし一方で私には一つの思いがあった。「このまま誰も名乗りを上げなければ劇団はどうなるのか」自分の中では非常に華やかな思い出を創ってくれた劇団だ。そう易々と無くして良いわけがない。私が次代6回公演の父となってみせる。そう思った時には既に先代に引き受ける約束をしていた。

●劇団「絆」6th

 コアとなるメンバー集めから始まった代表の仕事。前途は多難かに思えたが、5回目からの知名度が功を奏したのか、予定の内にコアメンバー集めは終了した。ただ、脚本や演出といった演劇精通者のポジションを埋めるメンバーは出ず、結果として経験もある私が一任することとなった。そうするしかなかったのだ。キャストのオーディションや団員集め、OBOGも手伝って、劇団としての形は整っていったが私の業務はキャパシティオーバーに近いこともあり、コアメンバーは常に私を気遣ってくれた。私のペースで進めろと、そう言うのだ。申し訳ないと思うとともに、もっと良いものにしなくてはと闘志は沸き立つ一方だった。活動を進める中で、度々問題は出るものの、柔軟に解決することができた。というのも全団員のモチベーションが極めて高く、私にもその影響か物事をはっきりと判断し、取捨選択する力が生まれたためだ。そうやって互いに互いが協力して、一つのサークルないしは企画は出来上がっていく。そのプロセスは極めて美しいものだと改めて代表職のポジションから感じることができた。本番終了後、終わってみればみんなが笑顔で、みんなが泣いていた。口々に「ありがとう」とか「やっぱり入ってよかった」とか、言うわけだ、泣きながら。握手したり、抱き合ったり。まるで夜空の花火のように、この日劇団「絆」6thは有終の美をもって、解散した。
●そして東京へ
 解散しても尚、演技のアドバイスや実際に舞台に立ったりで、私の演者生活は終わらなかった。次第にプロを目指すようになり、いつしか「プロ役者になりたい」という夢が出来上がっていた。私の第二の夢だ。そんな考えが常々自分の脳裏を駆け巡っている中で、今度は両親から面白い提案を受けた。「プロダクションのオーディションを受けてみればいい」。私は両親がそんなことを口にするとは思っていなかったため、興奮と疑問と不安が入り混じったなんとも不可思議な感覚に襲われた。ただ、「本物の役者」になりたいという思いは強かったため、その不可思議な感覚を手土産にしつつ、単身会場に乗り込むこととした。オーディションでは私よりも若かったり、だいぶ年上だったり、やけに強面でコンプレックス抱えてそうな人だったりがあたり一面に受けに来ていた。一人のプロになる機会を与えられた場に、ピリピリとした緊張感も手伝って、自分を見失う、そんな感覚さえ覚え、オーディションに臨むこととなった。
 しかし、結果は大変幸運なことに、合格。この時から東京行きを決意し始めた。レッスンには通っていたものの、居ても立ってもいられなかった。東京では情報がいち早く集まる上に、ドラマや舞台の現場は常に都心で行われるもの。役者に圧倒的に有利なのである。なにより大分から東京にレッスンを受けるためだけに通うなんていかに非効率的なものか。そんなこんなで事情を世話になった劇団の仲間たちに話し、親のサポートを受け、仲間の期待を背に、一路東京へと向かった。

●役者への恐怖心
 東京に移り住み数週後、早速ドラマの案件が届いた。大手キー局のドラマだけに、名だたる面々が揃う。そんな第一線で活躍している方と直にお会いし、仕事をするのだから、本当に気は抜けない。寧ろ負かしてやりたいと思う程だ。だが作品というのはそんな力比べで成り立つものではなく、様々な役がバランスを保ってこそ成立する。非常に繊細かつシビアなものだ。故に作品作りは面白いとされるのかもしれない。
 あるとき、俳優の六平直政(むさかなおまさ)さん、女優、いとうまいこさんと現場でご一緒した際に、こんな話をした。
 「役者をやるならば、自殺を覚悟しろ。」(六平直政 談)
第一線、しかも大ベテランの俳優の言葉だ、非常に重たい。私にはそのような覚悟は持てなかった。恐ろしかった。いくら好きといえど、死ぬか、運よく売れるかを天秤にかけるなどリスキーで無理な話だし、想像し得ない。しかし、彼のこれまでの背景を察するに、その言葉は槍となって、未だ私の心に突き刺さっている。穏やかな口調ながら厳しい指摘に、現場の洗礼を浴びたこの記憶は、私の生涯の宝物である。(写真参照)
一方、事務所とは別の所でワークショップを受けてみたりもした。AKBMVに関わった監督さんの元で行われたものだったが、内容が非常にストイックで、別にAVなどではないのだが、その場で相手女性を押し倒し、ヤれ(無論演技として)というのだ。予め設定や台本を渡されるのだが、いつにしても内容は重たく、普段演技をすることがないような内容のもので密度が濃い。事務所のレッスンとは比較ができない、それほどのものだった。この享受は役者としては非常に幸運なことだと思う。演技の幅を広げられる上に、自信がつく。こんな有意義な時間をもたらすワークショップはそうそうお目にかかれないだろう。だが、同時に私は恐怖した。冒頭の女性を押し倒す演技もそうだが、そういった演技とリアルの区別がつかなくなってしまう危険性があるのではないかと。感情をうまくコントロールできるようにならなければ、夢は夢のままでしかないのではないかと。役者に対して好奇心と恐怖心の板挟みに逢い、痛烈な衝撃を食らった。私の考えがいかに甘かったか、その場に打ちのめされるような感覚を味わった。そう、私は「プロ役者になりたい」はずなのに。

●ディズニーのお兄さん
 この顔でお兄さんは無理があるか。いやいや立派なお兄さんだったと思いたい。事務所で役者を勤める傍ら、無論お金も掛かるので稼がなくてはならないのだが、冊子を手に取ってまず最初に目に飛び込んできたのはディズニーキャストの面接というものだった。幸いにも接客をするのは嫌いではなく、むしろ好きで得意な部類であったため、面白そうな内容も相まって、稼ぎ先として決めるのには時間はかからなかった。とんとん拍子に事は進み、なんともすんなり入社を遂げた。だが、そもそもディズニーランドというものにそれまで訪れた事がなかったため、そこからは右も左もわからない、手慣れた「手さぐり」の状態が続く。巨大テーマパークに無知独り、自分で聞いて、知って、工夫しての毎日であった。ディズニーのアルバイト員は周知のとおりキャストと呼ばれるわけだが、私の本業である役者(キャスト)とは全く異なる趣をもつ。それが意外に楽しいのである。人の喜びを身近に感じ、あたかもそれが自身の喜びであるかのような感覚を覚える。加えてその喜びを運ぶ事が自分しかできないとなれば、非日常の世界観も手伝って、感覚はまさに夢を見るようなものとなる。

とまあ大げさに話してはいるが、人それぞれのとらえ方があるので、この話はご自身でなんとでもとらえて頂きたい。さて、話を戻そう。私は毎日2つの役を以て生活をしていたわけだが、この役者とディズニーキャストの両立は長くは続かなかった。特に役者は親のサポートありきで行っていたこともあり、親のサポートが苦しくなるや否や、途端に勢いは衰え、結果、事務所を退所せざるを得なくなった。これには私自身、応援してくれた劇団員の仲間たちの期待に応えられなかったという思いが強く残り、ショックを隠せずにいたが、他には出来ない、いい経験をさせてもらったと考えようとその劇団員たちの励ましの言葉をもらったこともあり、立ち直ることが出来た。離れていても常に繋がっている、本当にありがたかった。ここから私のディズニーのお兄さん一本での生活が始まった。

●自分の顧客を創る
 いつものように夢の国でいそいそと給仕をしていると、時間など経つのはあっという間なもので、ディズニーランドは30周年という記念を迎えることとなる。それだけ続くのも顧客あってということで、30周年(ハピネスイヤーと言っていた)にちなみ、ポジションに「ハピネス担当」というものが創設された。これは家族やカップルなど、普段パークでみんなで記念写真を撮ることが出来ない人のために、積極的に記念写真をお撮りする、そんなポジションだ。写真を撮るとなれば必ず誰かが犠牲になったり、自撮りでも上手く撮れなかったりするもので、中々、面白い事をするな、と私もにやにやしていた。夏季を迎え、パークは七夕のシーズンへ。私の属する和食レストランでもムードは七夕一色。浴衣を着てパークに来る人も増え、ハピネスポジションも盛り上がりを見せる。しかし、ここで私には一つ不満があった。発想は面白いポジションだが、いそいそと声をかけて、「よければ記念にお写真をお撮りします!」なんて写真を撮って、それでハピネスといえるのかと。ならないことはないだろうが、もっと何かできないかと考え、上司に提案を行った。それは「誕生日や何らかの記念を以ていらっしゃったゲストには、サプライズで私は似顔絵をお出ししたい。」というものだ。上司はその提案を快く受け入れてくれた。しかしゲストの邪魔にならないように、かつサプライズで渡すにはどうしたものか。しかもゲストは一人だけではないので、時間はかけられない。考えていた以上にシビアだった。が、やりたいことはやるべきだと意を決し、サプライズに取り組んだ。お冷を回るふりをして、サプライズの対象のゲストの特徴をつかみ、そのままお会計伝票に挟む。こうすることでゲストにばれる危険を防ぐことが出来るし、何より、伝票に挟めば、お会計まで大概の人は開けないのでサプライズにもなる。そもそも開けるとそこにはあるはずのないものが出てくるのだから、どう転んでもサプライズになる。結果は大当たりだった。レジの担当が私の所によってきては成果を報告してくれる。いつしかそれは名物となり、私がポジションを担当する毎に、周りのキャストもサプライズを見に来るまでになった。今でも覚えているが、7月4日の七夕イベントの日、景色のいい窓際で食事をすることとなったお2人様は七夕に合わせ浴衣でお目見えだった。普段はなかなか着ることのない浴衣だからと私は意気揚揚に写真をお撮りしたのだが、どうやっても逆光で上手く撮れない。ゲストもありがとうございますとは言うものの、心なしか少し表情が曇って見えた。それではハピネスの名折れだと、上手く撮れなかったお詫びに、お二方の似顔絵をプレゼントしてみることにした。すると、2人は感極まって帰りがけ、先ほどのお礼にと、本来はパークで使う専用の短冊をわざわざ私のためのメッセージカードとして手渡してくれたのだ。
また別の日、2月22日。この日はとある一家のお子様がバースデーだった。私にとって はもはやいつも通りのことで、似顔絵をそのお子様に向けてサプライズで用意するわけだが、そのような経験は今まで無く、非常に新鮮だったと一家のお母様が涙をボロボロ流しながら仰るわけだ。どこかで私が描いているのを見られたのだろう。「この子の似顔絵、描いてくださったんですよね?なんだかお顔を拝見したら、涙が止まらなくなって・・・・。」今でも鮮明に覚えている。
そこまでのゲストの幸せを創れたのならば、少々誇っても罰は当たらないだろうか。後日、私の退職後、オリエンタルランドから、22日のゲストから私宛に手紙が届いているので送りたいという話を頂いた。無論頂いたし、何よりそのゲストとは今もお手紙のやり取りは続いている。(写真参照)


もはや顧客と店員の関係を超越したこの関係の創造に、私はサービスの真髄を見出すことが出来た。からは、「サービス」というものを枠に囚われずに学んでゆきたいと真剣に思い、自身の表現=十人十色の無限の可能性としてこれより就く会社で己を磨いていくつもりだ。

●休学、復学を経て
 別府に帰ってきたものの、既に顔見知りは殆ど卒業しており、またAPUはアウェーとした。だが不思議なことに、ちっとも怖くないのだ。その環境が。ディズニーで共に仕事をした仲間も、劇団の仲間もまだまだ付いていてくれる。時には連絡を取って飲みに行ってみたり、わざわざ東京から旅行に来た子もいたりと、恵まれた環境の中、最後の4年目を過ごすことができた。それは、みんな「太一が太一だから」と言ってくれるのだが、私は「みんなこそ、みんなのままでいてくれるから安心して委ねられる」と返したい。常々思うが、私は人間に恵まれている。遠く離れていても、想うことができる。それをこの休学で貴重な経験とともに見出せたのではないかなと思う。「友」は「宝」だ。

APU生であるために
 ここまでグチグチダラダラと書き綴ってきたが、どんな箇所においても、「人との繋がり」が私の人生にとってのキーとなっていると思う。「APUは国際性豊かでうんたらかんたら~」も売りにしているから別に悪くはないが、何より大切にしてほしいのは「個人のコミュニケーションの能力」だと、私は思う。この大学は、国際性があるからこそ、コミュニケーションが必要とされる。結果として、そのコミュニケーションはあなたにとって大切な友人や恋人、家族を生み出す「繋がり」の一端となるだろう。
 「みんなと違う」大学で「みんなと違う」あなたのコミュニケーションは、きっと「みんなと違う」世界を創り出す。「こうあるべき」という枠にとらわれず、あなたならではの経験を大切にして、あなただけのAPUライフを楽しむこと、それがAPU生であるための必須条件だと、私は思う!
ここまで読んでくれたあなたに感謝。どうもありがとう。